2015年8月24日月曜日

濃いやら薄いやらわからん週末でしたが、なんですかね。なかなかきちんとは噛み合わないものです。

TEDxHimiで集まれる人間だけでなんとなく飲もうぜとか言いながら、相当楽しく飲んで飲み過ぎてしまい、土曜日をぐったりマインクラフトやらなにやらで潰し、更に日曜日まで似たような感じになってしまったわけですが、ワールドのどこを探しても牛がおらず、ひたすらどこかに恐らく居るであろう牛を目指すか、読書か読み聞かせをしているかという日々でした。
まだ困ったことがあってもググったりしていないので、いろいろ抜けていることはあるとして、草刈ったら出てくる種が麦になることを発見したのが一昨日。
牛に必要なのは麦や!というアドバイスで、麦を持ってふらふらしたら、牛があとからついてきたのが今日。牧場はじめました。牛が付いてくる様子を見ながら進もうと後ろ歩きをしていたら、背後でクリーパーが爆発して瀕死の重傷を負いはしたものの、なんとか死なずにやっております。
偶然ハサミを発見し、そういえば、棒をいくら組み合わせても柵にならないのでイライラしておりましたが、そういえば、スケール無茶苦茶やったなと思い直してみれば、さらりと柵になるなど、ググらずとも、なんとかやっていける感はありますな。

思索は続きますが、ちょっと書けないような酷いことも多く、また、前進していくことは前進していくこととして甚だしく、それなりにいい感じです。
そういえば、前年度末、つまり三月で終わるはず(あ、これ不味いか。略)

申し訳ないが俺には必要なかった

ところで、今、古本で入手したとある本の冒頭部分を読んでいるんだけれど、これを読み進めたものかどうしたものか迷っている。
アメリカ人の詩人が書いた生き方の再構築本で、結構長い間ベストセラーになったとか。困った。
この話題、これまでのフロイト先生とオカルトとシッダールタ、あとちょっとシェイクスピアが十分カバーしてくれているじゃないか。なんだよ。
なんで、生き方の本がベストセラーになるんすかね。今ぱっと自分の本棚を見渡しても、ちょっと見当たらないというか、悪くないのかもしれないけれど薄いものを手にとって困惑しております。

なにをしたものか……

と、ここでまた、ブロックでできた例の世界に行くといろいろ問題なので、なんか別の本を読むか、なんか書くか。さて、どうしたものかというところ。
そういえば、いろいろ考えあぐねて止まっていたセーフプロジェクトを再開しようと思うのです。

ネット上の何かという意味で、他のものとさしたる差異無しといえど、世界がセーフならいいなぁということでひとつ。

2015年8月21日金曜日

日々精進と発見となにやら。部屋とワイシャツとなんとか、いえ、違いました。

流木を生ける 花屋のフジッキーと氷見の浜辺でTEDxHimiのトークイベント開催時のディスプレイについて考察した。
流木で何かしたいというフジッキーの発想があって、そこからのスタート。
前日に海岸が清掃されて、まさかの不発かと思いきや、流木が一箇所に集積されており、かえって恐縮。
生花視点での流木の良し悪し。何を見るか、どう活けるのかという話し。
 流木の白くなり死んだ木肌の良し悪し。丸くなってしまったものよりは、折れてギザギザになったところのあるものが使いやすいということ。
なんとなく、流木で皿を作るという別ミッションのことも考えながら、夕方の氷見の海岸をふらふらして、実際に浜辺に流木を生けてみた。
フジッキーも、花屋になる前は結構な舞台役者で、日本の演劇の突端付近にいた男。流木も、立てたら空間になって、人がそこに立つというイメージは十分にできたうえに、さらにその流木が生けられたか、生けられていないかという視点が入るので、とても楽しい思いをした。
人間、公園だろうか道の真ん中だろうが、それなりのスペースにそこそこの高さのものを立ててしまうと、案外そこに非日常的ななにかを見出して満足してしまいがちになるものだが、この、生けられたかどうか、いかに生けるかというクオリティの求め方があると、一気に広がりが増していくと同時に、ただ立てるなら、どんな流木が良さそうかということもわかってくる。今回海岸で得られた、我々が思い描く舞台のディスプレイに適した流木についての考察は以下。

  • 木肌は、より白い方がいい 
  • 長さは3メートル以上あった方がいい
  • 枝の折れ感が鋭い方がいい

しかし、この条件があったからといって、決して何かが狭くなったわけではない。
ただ、こんな流木を求めて、海が荒れた次の日の海岸に行くしかなくなってしまったことも確かだし、ここからさらに、これが覆る何かを発見したり、新たな境地にたどり着くことができるかもしれない。
やっぱり場そのものや場数ってのは大事だし、専門家の目やら、考察を次につなげていくことというのは大切ですな。
何かの時点ので区切りは作るにしても、それもひとつの通過点に過ぎないわけで、幾つもの仮定や考察について、取捨選択の時間を短縮し、精度や品質を高めていくには、こうやっていくしかない。
わかるわからないも、やったかやらないかだけで決まると言って過言ではないっすね。

2015年8月19日水曜日

地底世界ですら家を拡張するノリで進んで行くとか、冒険じゃないですよね。

家で静かにお盆に突入し、家の界隈から出ずにお盆を終えまして、なにがどうってわけでもないんですが、みんなはでかい画面でCM無しで『火垂るの墓』見たことあるかな?一生に一回は見ておくといいよ。
サクマドロップにお願いしたいのは、そろそろ絵柄を戻していただけると、缶で買えるなぁという感じなんですが、本当ね。戦争だけは勘弁っす。

ところで先日、TEDxHimiの作業中に高岡の無双啓蒙家wk2tさんがうちの長男をMinecraft遊ばせたんですが、ああ、TEDxHimiなんやかんやでクロスファンクションな感じの面子になってきてます。さて、これがまぁ、5歳児の凄まじく真剣な顔というのを初めて見たんですよ。で、面白いとは聞いてたけれどと、ついついDEMO版で遊んでみたんですが、詰まるところ私、Minecraftのアカウントをゲットしてしまいまして、今後どうやって節度を持ってこの仮想世界と付き合うかということで、苦慮しております。箱庭あかん。

プレイ二日目ぐらいに、ざっとチュートリアルは読んだんですが、あとは実は富山Ingressのクロスのハングアウトでなんとなくプレイ済みの皆さんから聞いた情報だけを手掛かりに、ひたすらノーヒントでうろうろしております。
どんなアイテムがあるのやら、とにかくおっかなびっくりで試しておりまして、ボートが作れた時には目を疑いましたね。
なんせまぁ、海の向こうに島が見えてるんですよ。それなりに近い感じなんですが、泳いで行ける気もしなくてですね……。
なんとかして長大な橋を作ろうと画策しておりましたが、作れるんですね、ボート。一も二もなく向こうに見える島へ!と、海に漕ぎだしましたよ。やばいです。着いた先で夜になられても困るんで、もうとにかく家建てましたよ。小島の景観なんざ一瞬で破壊しましたよ。命大事。
とまぁ、なんでしょうか。安全のために、あらゆるものを犠牲にして便利さを求める営みと、資源を求めてひたすら版図を拡張しておるわけです。あさましいですな。人間というのはあさましい。
もうね、多分なんというか、いろんなところに自分の性格のダメなところが投影されてる気がするんですよ。今後プレイは1日40分だけとか、そういうことにしておこうと強く心に誓うものであります。

2015年8月13日木曜日

なんだか数日こねまわしていたんですけど、持っていてもふくらんでいくだけなので、日記だよということを思い出して、ちょっと整理して放出。いつにも増してわけわからないし、まとまり無く長いので注意。血パンダとTEDxHimiは人員を求めています。

年明けてTEDxHimiの準備を本格化し、先日血パンダの公演を終え、ずっと頭の片隅で考えていたことがある。
先日、これに追い打ちをかける形で、某所でインタビューの内容から、いつから田舎はダメってことになったのか、どうやって脱出したらいいのかと、自分の中で大問題化している。
これ、前提として、土地に縛られてポータビリティを無くしてどうするって話しもセットなんで、そこを忘れない様に。
目についてどうしようもなかったものが、解決しないまま自分の中でどんどん増幅していって、本当にイライラしているわけですね。
以下、壮大な愚痴ってことで、ワロスワロスでもいいんだけど、いかがなもんだろうか。

個人的には、今どきは田舎でも特に問題ないわけで、個人的には映画を見るのが大変なだけだ。ロードショウを逃したらその瞬間に映画館で見るやりくりすらできない。これはしかしまぁ、我慢できる。
問題は人の頭数だ。
皆さん概ね「田舎でやってもしょうがない」「田舎だからいいじゃないか」とか、「こんななんにも無い田舎で……」という定番のやつに蝕まれている。
でなければあとは、周囲の雰囲気を見ての判断の結果ご一緒できないとか、俺ごときが、私ごときがというのが始まって、何かしようと言っても、そうそう順調には人が集まらない。
さてひとつなにかをしよう、そのための徒党を組もうとなった時に、必要な教養のある人間が簡単に集まることは非常に重要で、田舎では実際これがとても致命的だ。
じゃぁ、教養ってなにさって話しになるけれど、これは、なんかやるぞ。となった時に、そこに意義を感じた各々が、細かく言葉なんて通じなくてもいいから、ちゃんと正直に、我田引水をせずにみんなでどんな行動ができるか。そしてそれを実行していくうちに、何処かの時点でどのぐらい豊かな共通の語彙、認識を持つに至るか。
ここまでのプロセスに耐えられるかどうかが教養の有無のひとつの指標だと考えている。
一人で黙々と何かするんなら問題ないのかもしれないけれど、一人なら極端な話し、人類最後の一人になったとしても同じことだ。あ、流石に誇張しすぎ。

幸い、情報ならインターネットですぐに入ってくるし、今どきは一般的に中学は卒業できているので、大概の日本語は理解できる筈だ。
子どもたちが等しく妖怪ウォッチにはまる様に、大人だってなんだかんだで、いろいろな情報に触れられる筈なんだけれど、結局はどうだろう。実際、多少苦労するものには辿り着いても無かったことになるし、乗っかれる他人のふんどしならいいけど、自力で何かとなると、全くピクリとも動かない。
これは、多様化したからだと思っていたけれど、そもそもそういうもんでもない。手に届く範囲からどのくらい広げられるかってだけで、人間はそもそも一日二四時間、処理能力をフル稼働して生きていないので、知らないであたりまえだってことですよ。
見たり知ったりした瞬間に体が動くのか。そういう情熱を、なんであれしっかり培う雰囲気が田舎には無いんじゃないのか。これはなんでだろう。
仕事の休み。車。パチンコ。ショッピングセンター。禁煙。酒の量。これに、村の揉め事や祭りの話題が加わるだけでも幸せなんですけど、同じ話題がループするんですよ進もうよ。深めようよということなんですが、なかなか無いのです。
とはいえ、最近の世の中には自己肯定やら生き方のTipsやら学びの場があふれているんじゃないのかと見えるんだけれども、結局みんなで何処を見て時間だけ潰して身動きする時間を無くしているのか教えて欲しい。
何かを他所から持ってくるのはいい。どんな風にして自分の居る場所で形にするのか。完コピが上手くいくわけもないし、ただの真似だとそもそも薄っぺらくて根付くわけもないんだから、とりあえずできる範囲でいいから、ちゃんと根付くことしようよと思うわけだ。君のまわりに、君がなんか言ったりやったりしたことを区切りにしている人はいるか?そんな仲間を集めて、誰かのふんどしにそのまま乗っかるんじゃなくて、自分たちのものにローカライズして磨けているだろうか。
ナンバーワンのクオリティがお嫌だからって、オンリーワンを目指したら、それこそ圧倒的なクオリティが無いと、ものの数にも入れてもらえないことの恐怖に気づいておられるだろうか。残れないなら時間つぶしと同じで、それでもいいということは、極端な話し、人類最後の一人に以下略。

こういうのね、さて考えてみようぜとか言ったら、改めてTEDのバカ踊り動画とかで解説されても、頭にくるだけなんすよ。実際のところリーダーシップとかそういうもんでもない。
その辺の、普通に誰でもする分析はもうどうでもいいから、分析だけして踊らないことに価値があるなら、その真の価値についても厳しく問いたいものであります。
俺はそんなこんなで、血パンダ結成までは富山県内で誰一人、改めて演劇やろうってい言ってもあんまり相手にしてもらえなかった。そうこうしているうちに戯曲読んで集まってもらえたものの、いろいろ考えても、通算6年がかりぐらい。非常にありがたいことだが、やっぱり、あらぬ時間のかかりかたをしていると思うわけですよ。
さっきのリーダーシップってことでいえば、俺は血パンダの団長なんですけど、戯曲書いて演出するだけだから、役者が居ないとなんもできないわけです。大道具も制作も自分でやるとか、どんだけやねんって話しですよ。役者のみんなに言わせれば、「俺達書けないもん」って話しになるし、ほとんど場面転換も音も無いお芝居ですけど、血パンダの舞台にピッタリの地あかりを設計して調光してくれる照明さんが居たら、もっと凄まじい舞台になるんですよ。必要なのは、ナンバー2なのかと問われれば、答えは否です。
ある程度の規模にならない限り、マネジメント云々ってのは、できない、やらない奴らの戯言で、始めようやってみようって規模なら、頭働いて体動くやつが集まって何をするかきちんと考えれば、事足りるし、そういう中で長期展望っぽい種をきちんとまいていくことも、視野に入れられればいいんじゃないのかと、そんな次第。で、何処にいて、どうやって集まるのが普通なんだよ。

そうだ。血パンダは劇団員募集してます。TEDxHimiもまだまだ人員不足であります。
血パンダは演劇。TEDxHimiは例のトークイベントを実行する集団だけど、本当は、TEDの精神に従って、いろいろ活動したいところなんだぜ。
というか、ここまで書いててよくよく考えたら、ideas worth spreadingって、いいこと考えたから聞いてくれ!やってみようぜ!ってなんだか普通のことじゃないか。

2015年8月9日日曜日

田舎モンを食い物にするのは、なにもカタカナの職業の皆さんだけじゃなくて、今まさに食い物になってるみんなが体動かしもしないでネットで言い争ってるんじゃないのかと、そんな風に考えた。

村の壮年会の飲みから戻ってきて、やっぱり確信したというか、村落の共同体で政治の話になるのは概ね総会の時だけ。しかもなんやかんやで村としては自民党一択で、村で推す雰囲気の議員になる人がダメならそれはそれでどうなんやと文句を言ってちゃんとしてくれよとかいうやつ。
なんでかといえば、他の政党の政治家には、なんの実績もないから。そもそも、民主党が政権取ってた時に、界隈の民主党の政治家は、改めて政権取ったし、話しきかせろよと顔を出すなんてことも無くて、そんなこんなでいろいろ立ち遅れたという話し。それしか聞かない。
諸々で垣間見た地元民主党のていたらくを鑑みれば、そういう有り様が、政権を持つ持たないに関わらず平常運転ということで問題なさそうだ。

つまりは、なんやかんやで政治やってる皆さんで地盤というか、住み分けをしておこうという程度でしかないということだとしたら、それは非常にだらしないことの様にも思えるんだが、そういうのもさておいて、ちょっとした推論。

今の戦争法案騒動で右側の床屋政談の連中が妙だなぁと思うのが、そもそも選挙で選ばれた自民党なんだからデモすらすんなとかいうやつ。
こういうことを言う連中って、地域のコミュニティでも数少ない政治っぽい話しには、そもそも関心払ってないんじゃないだろうか。

普段のロビー活動というか、こういう政治家にお願いする、役所にお願いするってレベルで、具体的に困ってるんだよ。という話しを真剣にしたことが無い可能性をそこに見て取れるぐらいに、選挙の瞬間に対するこだわりを感じるわけですよ。そこで時間が止まっているという誰かの意見を鵜呑みにしてるだけ。なんでかというと、経験が足りないから。
いえね。用水路が埋まったり、溜池の水が漏れてたりするんですよ。溜池が決壊したらどれだけの被害になるか、いかにもマズいって話しなんですけど、これギャースカ言わないと、なかなかどうして、役所も決して当事者じゃないんで、お願いだよ怖いよと訴えるみんなよりは、のん気に落ち着いてるのが普通ですよ。
つまり、普段から声出すケースって、諸々あるわけです。デモという手段じゃなくても。で、そこから考えれば、今回の法案なんて、話題が天下国家だけに、とりあえずデモってのは一番穏当で民主的なんじゃないの?選挙権なんて、俺達の主権のひとつの構成要素じゃないの?
ある程度都会の人はしょうがねぇかもだ。問題は、田舎モンのネトウヨだよ。しかも、子供が居そうな年齢の皆さんだ。ちゃんと地域社会で、当事者として生きてる?
いいよ。村や町内じゃなくても、他にも単位はある。職場でも各種団体でも。なんでもあるんだよ。やっぱり、普通にやってたら自分たちの生活に政治やら行政絡むよ。選挙だけが断面なんてことは、そうそう無いんじゃないかな。

でまぁ、その上でやっぱり地元でいくと、サヨクは後継者も育てられなければ、長い時間かけて労働組合もいろいろボロボロなわけで、そもそもなにやってんだって話しなんですけどね。
それこそ、青年団やら婦人会やら老人会やらででも政治の話しになるのかならないのか。そういうところでまで政治の話しになり始めたら、それでも長いものに巻かれたい感じの雰囲気になるのかどうか。それが問題なんだけど、なんだかんだで左はしょうもない情緒に訴えかけてくるし、結局は左右どっちも田舎モン食い物にしてるんじゃないのかってことで共通だろうと、そんな話しになるわけです。

そんなわけで、自分のところの田舎では、自民党が他よりマシな存在になっている。さて、明日はどっちだよ。と思うものの、何かあって認識を新たにするまでは、そろそろこの話題はどうでもいいや。
平和大事。長いものに巻かれたいだけの人たちに巻き込まれるのはヤダ。
考えるのは終了。次いこう。

2015年8月7日金曜日

いい加減、共感程度でよしとする態度を捨てて、もうちょっとみんなで頭使ってそれを持ち寄らないか。

進んでいるのやら、停滞しているのやらわからない数日。
結局、先日のお叱りへの返答に対して反応はいただけず、ただ流れで「サヨク」呼ばわりされたことだけを、自分のギャグレベルの現在の到達点として、重く受け止めておくことにしなければならないのか、それとももうちょっと刺激した方がいいのか思案中。
そういえば、ブリスマスのフェイク・ドキュメンタリーを本気でなんとかしたい。氷見のPRにも使えると思うんだがなぁ……。ほら、『おそいひと』は10年以上色あせてないじゃないすか。それを実績としてカウントして欲しいなぁ(下衆顔)。いや、冗談でなく。今ならお安く済ませられます。多分。

某テレビ局にて相談と雑談。
ここ暫くのブログの種明かし。なるほど、それで政治家育てなきゃってブログに書いてたのかって、まぁ、極めて熱いわけだけれども、本来はあまりこの世の役に立ちたいという意識があるわけでもなく、全部戯曲とかそっちに出してしまうわけで、その辺はもうどうしようもないわけです。
あ、ホームページも普通に作ります。
SEO屋とかWeb広告屋の動きが激しいので、同じくらいの予算を管理費名目でいただいてコンテンツ整備します。ってのが最近のトレンドです。ブログ書きの稽古も淡々と行っておりまので、ご用命あればどうぞ。

イーラボにて、たまたま居合わせた、うえるさんに質問。
セラピーをやる人間として、セラピーを必要とする人にありがちなパターンと、それを俯瞰してプロセスを見なければならない立場から、何が見えているのかという話し。
通常は、自分の現在位置を確認しつつ、本当にこれでいいのだろうかという圧力やら不安やらと闘いながら、更に自分を磨いていくわけで、それが本質的に救われる唯一の手段だが、研鑽の努力を他者への共感で代替して、そこで同じことをする仲間なんかを見つけてしまうと、永遠にそこから抜け出せなくなる。
共感程度の強度でまとまる集団というのは、基本的に互いへの依存も弱くて済むので、困難を伴わず、結果として何一つ生産的なことができない可能性を持つ。
なんつうか、これ、普通に朝活とか早起会やセミナージャンキーの皆さんやビジネス本読書家、宗教未満のスピに見られがちな傾向か。
しがみつくのはいいけど、変な姿勢だったり、拠り所が弱いと思わぬコケかたしますよってことなんだけど、なにをもって転んだとするかってのも、そこまでいくと大小あって個々人のケースに入り込んでいくんだけど、こう書いてカチンとくる様な皆さんは、そもそもこの文字列まで辿り着くことはないと予測はしているんだけど、敢えて描くなら、あなたが普段、結構気軽に使っていると推測される、共感って言葉について、これはそもそもなんだろうと、ちょっと真面目に考えてみていただきたいものです。

ってなわけで、なんだか着々と新作に必要な要素が集まってきております。
え、戯曲なの?政治活動とかそういうのじゃなくって?って、そりゃそうでしょ。何を今更。

2015年8月5日水曜日

もう一回、今はすっかり廃れてしまった氷見の奇祭「ブリスマス」について考えてみよう。

よくよく考えてみれば、マルクス兄弟の本を持っていたら、共産主義者呼ばわりされたなんて、悪い冗談だと思ってたんですが、どうやらそれが冗談じゃなくなりそうなご時世って理解でいいんだと、そう悟りました。
ってことで、一国一文化主義者がのしてきて、かしこくもとうとくて目が潰れるかとも思える様な、輝かしい日本のルーツをフィクションにして遊ぶな!とか言われる前に、書けそうなことだけつらつらと書いておこうと思う。

阿努の庄へのユダヤの移入

氷見界隈は古来、阿努の庄と呼ばれていた。
アヌといえばバビロニア界隈の神であり、アヌンナキの父である。古代の氷見界隈にメソポタミアからの入植があったことは、想像に難くない。
ただし、メソポタミアからの勢力は、徐々にユダヤの勢力に入れ替わっていく。
現在の氷見市中村は、阿努の庄の中心として、中村という地名になっていたわけだが、阿努の庄が春日大社の支配下に入った折に、祭神は春日さんに刷新されている。春日大社はその筋ではユダヤとのつながりが指摘されている。

ユダヤという点では、氷見には磯辺という地名もあり、磯辺神社が鎮座している。イソはイセの訛りで、こちらもユダヤ。そして石動山だが、セキドウサンと読む分にはなんてことないがこれは、イスルギと読む。ここには、イスルギヒコという神様が居たということだが、イスとくればやはり、ユダヤとの関係を見ておくのが定石と言える。
また、氷見の市街地では、京都の八坂神社を勧進し、京都同様に祇園祭りも行われているため、ここまででユダヤ系の文脈の移入は揺るぎないものとなっている。

氷見にほど近い宝達志水町にはモーゼの墓もあり、富山県の呉羽山では、世界の聖人が修行したとも言われている。

ぶっちゃけ、イスルギヒコ=天狗=イエスキリスト

あれ、ここまで書いたら後は、前にTumblrに書いた氷見のブリスマスについての引用で事足りますね。

氷見市民の男子は、16歳の冬に専用の定置網に船を横付けして、海中から直接ブリを抱き取って船に戻るという通過儀礼を行う。
昭和40年代頃までは浜から沖で撒き餌をしている船に泳いで向かい、船の付近に居るブリを捕獲していた。
網からブリを取るのは、どうしてもブリを捕獲できなかった場合に限られており、「アミ」と呼ばれ揶揄の対象となった。
山間部の村でも特定の網元に依頼して海で通過儀礼を行うのが一般的で、特別な事情があって村の溜め池で鯉で実行したものの、結局は次の年に改めて海でやり直したという江戸後期、明治期の記録が幾つか残っている。

後ろの方のパラグラフのみ引用。
結構廃れ気味というか、もうほぼやってないんですけど、富山県氷見市の男子の通過儀礼「鰤澄す・ブリスマス」なんかは、たぐっていくとマジでキリスト教起源というか、十字架になる前のキリスト教のシンボルって、魚のマークだったわけで、一緒なもんが使われてるんですけど、でもあんまり誰もその辺に突っ込まないまま下火ですよ。
ただポーンとそこにあって、クリスマスの時期にやるのに、誰も意味なんか考えないですよ。
氷見市界隈、獅子舞の時は「エイヤサー」って「弥栄」なんですけど、ブリスマスのときは飛び込む若者を鼓舞したりなんだりの掛け声「ヤーハエーハエー」ですよ。「弥栄〜栄え〜栄え〜」からの変化なんだろうなと漠然と受け止めてましたけど、ストレートに「ヤハウェ」ですよね。アイタタごめんなさいもいいところでした。

どうすかこれ。氷見市の皆さんは前向きに、この古代から続く通過儀礼、『ブリスマス』を復活させたらいいと思うよ。

2015年8月4日火曜日

いかん。左右ともにいけてないよなぁと思ってたのをそのままポロリして、思わぬ場所でやらかしてしまった……。

ここまでの禿の今日は……

地元の歩き方教室の先生がFacebookで、このブログを支持していた。
http://ameblo.jp/hsybga/entry-12057519701.html
歩き姿フェチで、先生の活動をチラチラ見ている身としても、先生自身は断固支持するものの、ブログの彼女のエントリーにはSEALDsの例の梅田演説と同じくらい違和感を感じるので、その旨書いた。
ん〜。シールズの女の子とたいしてかわらないレベルで、自分の言葉を喋っていない印象ですね。ネトウヨのスタートラインから改めて世界を眺めています!的な。シールズは、サヨクの伝統芸能的な作文で失礼します!ですが。
と、これに、先生のFacebookともだちの方から、自国に誇りを持つことが何故「ネトウヨ」となるのか?
とお叱りを受けたので、長くなるものあれだしと、諸々端折って所見を述べたものだ。以下。
出雲の勢力圏のもの知らずの若者に、地元の国譲り神話も教えず、いきなり大和王権からスタートってのは、たいへん結構な情報操作に見えますね。背後には一国一文化の次世代の党が居られる様なので無理もないんですが、何十年も歴史勉強してきた凄い喫茶店のマスターの凄さも疑わしくなります。地元愛が見えない愛国心とか、信用に値しないなぁ。
いやぁ、確かに端折り過ぎてますよね。これに対して、
答えになっていない、ネトウヨの定義をせよ。と更にお叱りを受けたので、とりあえず、

あ、返事書いてる最中にブサヨ呼ばわりのテンプレートが入ったのでので、同じマルクス主義者でも、俺はグルーチョ・マルクス主義者だと答えたら、「マルクス主義は既に崩壊してますので、そんな主義の方との議論には応じるつもり全くありません」とか言われた。
ちょっと悪ふざけが過ぎたな……。これは申し訳ない。
グルーチョ・マルクスの名言がネット上にまとめられていたので、貼っておこう……。
さて、先生のエントリーのコメント欄をこれ以上騒がせるのも忍びないので、場所をここに移す。
というか、先生に見つかって喧嘩なら他所でやれと言われてしまった。申し訳ないっす。
つか、いいのかこれ。右左インテリどの方向からも嫌われそうだぞ……。しゃあないか……。

お叱りへの返答

ところで、逐語的な解答を希望しておられたとは、意外でした。最初の書き込みからはみ出さない様に書いてみましょう。

自国に誇りを持つなら、彼女の場合は、教えてもらったことを更に深める目的で、自分たちの地元の歴史を勉強してみても良かったのではないかと考えます。
彼女の地元は、日本の王権確立のひとつのヤマ場になった土地の筈。いろいろ面白いのではないかと考えます。
愛国心の源足りうるのはまず自らのコミュニティの文化、歴史や土地への素朴な愛着であると考えます。まずは体験し、把握している範囲に対しての愛着や敬意から体験的に自然発生して然るべきで、彼女の様に自虐史観への憤慨の様なものや、国民の象徴である皇室の歴史に対する敬服を誰かに吹きこまれてというのは、実際には非常に足腰の弱いものになります。体験、経験ではなく、ただの思想ですね。
愛国心というのは、そもそも普通なら成長とともに育まれるものであり、たとえ国を憎み、捨てる様なことになっても、その人を苛むものだという理解です。

思想は揺らぐ可能性があります。なんだかんだで転向もできる。そんなものが愛国心では、その時々に簡単に形を変えて記号化して誰かに利用されてしまうのではないでしょうか。
利用ってのは具体的には、同じ様に感化された人を寄せ集めて、敵を作りあげてみせ、「憎い!」と言わせること。自分自身が「愛国者」であると公言させること。公言した人を仲間に賞賛させること。
国を愛しているという記号の下に集まる人間の一定の人たちを把握できれば、彼らを使っての論調形成は、普通よりも容易になります。

「愛国心を持たせない様にしている日本のマスコミや教育学会」と十把一絡げにしておられますが、そもそも愛すべき国というのは何で、マスコミや教育者は何を伝えていないんでしょうか。
彼らをひとくくりにして、「間違っている」と見なしたきっかけってのは、インターネット由来の情報や一定の書籍群ですか?
幸いなことに、日本ではまだ、ある程度は自力で判断できる状態にあり、海外の視点でどの様に見られているか、様々な情報にアクセスして、いろいろ判断できると状況だと見ていますが、いかがなものでしょう。
あなたが、俺は既に結社している活動家だということなら、それなりにがんばっていただきたいのですが、

  • 俺の書き込みに答えてない。
  • 言葉の定義をしろ。
  • ネトウヨ呼ばわりするならサヨク。つまりはブサヨという決めつけ。
  • 日本が嫌いなら出て行け。

ってのは、やっぱりインターネットでよく見るテンプレートから、まるではみ出してないですよ。
私の文章はわかりにくいと、よく言われますが、他の人が書いた文章の読解力の方はどうにかありますので、テンプレートに準拠しない形で、ご自身の言葉と進め方で、ご自由にどうぞ。恐らくは、問題ありません。

2015年8月2日日曜日

お盆ぐらいまでに新作書けたら、また『夜は』の上演を延期してそっち上演するとか、そんな流れ。どうなる血パンダ。

連想の癖とでも言うか、何かを見ていてふと何かを空想してしまうパターンの個人差の話し。
山やら大きな建物の向こうから、大入道の様なものが顔を出すというのが俺の連想の癖で、これは子供の頃からずっと。
小学校に入って、水木しげるの妖怪の本で「見越し入道」を発見したときに「見越し入道見越した」というと消えるとあって、恐らくこれで対処可能なんだと、ある意味安心したものだ。
実際に大入道が現れるて、消える呪文の効果を体感してもおらず、その空想の癖は消えないわけだが、こういうのは本当に人それぞれの様で、とても面白い。
こう書くと、皆怖い方のことに思いを馳せてしまうが、楽しいものでも悲しいものでも構わない。
人間、多かれ少なかれ、こういうもののパターンでできているんだろうが、くだらないものは順繰りに手放していければいいものと思う。

とりあえずは、目に入るくだらないものに心動かされない様にというか、ダメだなぁと感じるものについて、あまり感情に引っ張られることなく、対処したいものだ。

公演直後の打ち上げに参加できなかったメンバーも交えて、血パンダ公演の打ち上げ飲み直し。
飲んだ後、移転した粋宏閣でしめたものの、あまりのごった返しぶりで、失敗。
確かに、だらだら酒飲みながら食う場所でもあったけれど、店が大きくなってもうわけがわからない混沌。店の容量分だけ拡大する場末。