2015年6月30日火曜日

堂々巡り。以前買ったのが2006年1月26日らしい……。

改めてSkypeで相談することの多い日々。
相談したら次は共有やら作業やらという流れになるわけだが、とあるコミュニティで、グループウェアでの情報共有とタスク管理がそんなに難しいことなのかと、かなり疑問を感じながら日々を過ごしていた。
単純なことで、クオリティが下がることを防止するために頭を使う習慣がないというか、そういう感覚が無いことが原因。
無いよりマシ、やったからオッケーのフラグ立てでクリアできたことにするという、結果オーライの悪習が根にあるものと見て取れたので、それはそれで前々からの観測の通り。というのが、本日の収穫なんだけれど、こんなもん収穫してもしょうがない。
ほんの少しの先回りと確認ができれば、スムーズにクリアできて見えることもあるだろうが、やってナンボがスタートなので、些細なもののクオリティのボーダーラインを越えるために終わりが見えなくなる恐怖というのは、誰も幸福にしない。

先に声出していくことから、実際に手を動かしていく流れの重要さについて考えたいところ。
やったことないとか、完成がイメージできなかったとしても、挑戦はできる筈。
挑戦の仕方について学べるのは挑戦したときだけなんだが、フラグ立てるだけの動きではなにひとつ把握できないで、幻に近い期日だけが過ぎ去っていくことになる。
言葉にすると当たり前だが、目の当たりにすると結構怖い。気をつけなければ……。
そういえば、初めて就職した時に、上司がいい本だと教えてくれた本のうちの一冊。買ってはその度に誰かにあげていて、旧版含め三回は買っていて、今はまた手元にない。
『ノンデザイナーズ・デザインブック』は理由の無いものは地上に存在してはならないという話しの根拠の一部として利用された。
そしてまた、この本のことを思い出しているわけで、一体なにがどうなっているんだという話しですよ。

2015年6月29日月曜日

レインボーやらなにやら、何も無い日にもネタはあるもので……。

昨日よりも更に薄い一日。
午前中はネパール地震チャリティーコンサートの絡みで娘を連れて高岡のおとぎの森へ。
帰宅して、ずっとカートゥーンネットワークで『アドベンチャー・タイム』。面白いものはしょうがない。

米国の同性婚合法化の記念でSNSのアイコンに虹装飾を加えるというお祝いで、案の定カミングアウト云々という反応が散見される。
どうでもいいことだが、こういうのが別の例でいけば、あいつはアカだとか、世の中が戦争しかないという雰囲気に突入した途端に「そういえばおまえは戦争反対だったよね?」と言われて警察に引っ張られるってのの原因になるやつか。そうだな。
何かに対して共感、興味を示しているだけで当事者ということになる図式。
特に何も考えていないからこそ発生する、長いものにまかれて定式化される短絡の回路が、なんだかんだで多数派の印象という圧倒的な圧力を作るわけだから、そう思えば、世の中が変わることはなかなか難しい。
そんな意味では、現実に追いつかないと言われがちな法律が、この現実をカバーすべきとロジックを示したわけで、お祝いも必然かとは思うのだけれど、そういう感覚もなかなか共有されないわけで、各々自分のことで忙しいから社会問題には当事者にならないと構えないという、かつて聞いた分析に、確かにそのとおりだとしか言えないことを再認識させられた。

大阪に帰った中村からのメッセージで、昔、カレーフェスタでスタッフに悪態ついてカレーぶちまけたんで抗議に行った店のオッサンと衝突したことを知る。またなにがあったやらと思ったら、予想以上のくだらなさ。
富山県の自慢がしたかった様だが、全く逆効果で目も当てられない。
抗議の折には、有名ブランドを路面店で扱う厳しさについてや、早くに父親を亡くしたことについての泣き言を口にしかけて耳を貸さなかったものだが、接客とはなにかについて、改めて考え、いや、考えなくてもいいか。特殊な事例でした。
某有名ブランドも、なかなか個性の強いところに品を卸しているもので、ピリッととんがった地方戦略ですよね。

2015年6月28日日曜日

そっか、チンチン出すネタですね。

昨夜は大阪から中村が来て富山市内で飲んだため、今から日記。
中村、数年ぶりで現実逃避で富山に。放送作家もいろいろ大変だろうということで、なにはともあれ酒飲んで笑う。富山にいるジョージとノテコが実のところIターン夫婦だということもあり、なんかちやほやしてもらうか、地元に帰るってのが良いんじゃないのかという話し。
地方創生といえばIターンもいろいろウルサイですけど、思えばなんも言わずに来てなんかしてる人は他にもいるだろう。旗振ったらその文脈がわかっている特定の傾向の皆さんが華麗にサーフしてくるわけで、自分たちで自発的に声かけたり提案してみたりというのも動きとしては必要なんじゃないだろうか。

大学の頃の無茶苦茶に比べたら、今はたいしたことはないものの、普通に知っているやりかただと、簡単に倒れてしまう人間が続出するという件、やりたいだけでなんでもできると思ったら大間違いだということはあるが、現場に合わせて体と心を合わせられなければ切り抜けていけないわですが、だからって保護してくださいとか、諸々の啓発に頼るってもろくなことがないわけで、と見ているとですね、最後の居酒屋のトイレのカレンダーが、辛うじてみつをではなかったものの、飲食業のアルバイト店員啓発系の大立者の語録だったため、酔いが覚める前にそっと閉じたものだ。お前たちが得たと思った価値を、こんな形で客になすりつける必要はないだろ。別にいいじゃないか。
報道における放送作家の役割もナルホドな話し。視点のもち方というのは大切。
なんとなくネタだと自然にチンチンが出がちというのも思い出した。一回全裸飲みやると、暫く脱ぎ癖つくってこともあったなぁ。もう大人なので気をつけよう。


昼間はやや薄め。飲みが長引いて行けない対策のために、村労働の草刈りを先取りして一人で実行。細かく休憩しながらやらねばならんことを思い出す。草刈り機の振動のせいで、手が震えまくって笑える。気をつけねば。

2015年6月26日金曜日

身動き取れない割に動きの多い週だった。

某所から預かってきた壊れたハードディスクからのデータのサルベージに決着。
Raid1で運用しているNASが壊れて、ハードディスクも壊れるというあってはならない展開で、結局元の領域はマウントしようとしても返事が来ず、辛うじて壊れていないハードディスクにまるごとコピーしてからの復旧作業となった。
手元の環境にmdadm、xfs周辺のパッケージのインストールから始まり、USBの転送速度にもどかしくなって、結局は直に接続してコピーが終わるのを待つという作業内容。マウントできたやんかと一息ついて、GUIでコピーしたら途中で止まるという最後のヤマ場付き。なんのことはない、また普通にコマンド叩いて解決するわけだけれど、インターフェイスの安定性って大事ですね。
改めていろいろ覚えました。

なんやかんやで、引き続き剛とSkype。恐らく、近々鎌倉方面に行かねばならない流れ。

山梨の日向が、7月4日に友川カズキを招いてのライブ。かなり重要な事件。
http://atemzeit.fem.jp/gt/archives/531.html

7回悶★カーニバルは音楽一本。友川カズキを招く。対バンは山梨ハードコアが生んだ奇跡のDuo「アカシア」がドラム4台を引き連れて友川カズキに挑む。
日時:2015年7月4日(土) 18時30分開場 19時開演
場所:甲府「桜座」
〒400-0032 山梨県甲府市中央1-1-7 電話055-233-2031
http://www.sakuraza.jp/
出演:友川カズキ、アカシア+日向正親+山口学+深澤英樹+小田切佳仁
入場料:前売り3000円 当日3500円
予約:ホームページ
http://atemzeit.fem.jp/gt/
のメールフォーム(スマートフォンの方は「Desktop」表示後)に「お名前、枚数、電話番号」を明記
または桜座055-233-2031
主催:Ghost Temple 


昨日と一昨日、車が故障している栗山をピックアップして稽古に向かっていたのだけれど、車中の話題は継続性と当事者意識といったところに収斂されていく傾向にあった。
何をする場をどうやって作るのか、そこに居るべきは誰か。もし、集合せよと旗を振るなら、気をつけておかなければならないことは何か。
ハナシを聞くのであれば、ちゃんと知っている人に聞かなければならないし、優れた質問ができるのか、とにかくどうやって洗いざらいハナシをしてもらうかの工夫が必要になる。
その上で、ちゃんと重要なことを重要なこととして拾い上げられるのか。結局はそのための勘を養うための学習というのは必要な筈で、なにはともあれ、なんでもかんでもテンプレートになる筈はない。
上滑りにならない様に踏み込む力量と何をして何をしないかという範囲の決定。切り分けて磨かなければならないものを磨くとして、とりあえず今更できることを増やすのではなく、切り口と深め方の精度をあげる方向の模索は続く。


今週は、継続モノの進展に加え、新たな依頼やら失注のお知らせやら、消えていると思っていた案件が生きていたり、さてスタート思ったらやっぱりやーめた宣言が出て終了など、毎日展開に事欠かなかった。
どちらにしても、明日はどっちだ。

血パンダの公演ですよ。

Ostinato

午前様でそのまま力尽きて寝てしまったので、朝っぱらから昨日の日記。
演劇やってまして、血パンダって劇団なんですが、近々公演です。
エンターテインメントなんてのは、選ばれた人気者がやればいいんですよ。そういう人たちの拙い真似っこはしないし、そこに力注いで満足感を模索するくらいなら、最初から違うことします。
ってわけで、好き好んで圧力しかない、わかりにくい演劇やってるんで、そういう覚悟だけして来てもらえると、元本保証はしないですけど、通常、そこそこのリターンはあります。

継続して求めていく価値、その時々のコンセプトとか、そういったことは諸々ありますが、世の中の皆さんというのは、案外そこら辺を外しても、適当なフラグさえ立てればいいというか、悪くても安くても、収まればよしという考え方をしているもんでしょうか。どうも、ベース作ってそれに忠実にやるという動きを理解している人が少ない様に感じる今日このごろ。
経済活動はそれでも大丈夫かもしれないけれど、そうでないものは世の中にはゴマンとあって、さてしかし、どうしたものかと考えることが多くなっています。

コンセプトに対してどう忠実になるかで、遊びの質や楽しさも違ってくるもんですが、こういった時にすぐに出てくる、AはオッケーだけどBはダメってことなら、その境界は何処なの?という問い。
そう問わねばならん段階で、多くはなんでAがオッケーでBがダメということになったのか、その本質を理解していない場合が多くて、本当ならその時点で、向いてないからやめとけと諭せば仕舞いなんですが、なかなかそうもいかないわけで、困ったものです。

何かを実行する集団ができれば、実際にはその集団ごとに厳密に運用される様になる語彙というのができてくる筈で、若者言葉が「仲間の連帯感を高めるために……。」という様な言われ方をしますが、連帯感だけでなく、伝達の効率や何をして何をしないかが、集団内の語彙、言葉の使われ方で決まっていくわけです。
そのうち、あらぬタイミングで、言葉が通じない奴の存在が発覚して、「この期に及んでわかってなかったのか!」という様な事件が勃発するわけですが、集団内の文化の醸成というのは、実際はきちんと脳みそと言語でやることで、そこを面倒がる人ほど実にコンセプトの理解も面倒がるもので、あ、つまり前段の、なかなかそうもいかないというのは、やっぱり間違いですね。
ルールが理解できないなら、このゲームやらなくても死なないから安心して他のゲームやりなよ。というのは、一見酷い話しですが、そもそも人の価値と直接は無関係なので、よしとすべきじゃないかしらと、そんな風にほっこり考える次第。
言葉は発したのか。頭は使ったのか。きちんと確認していきたいものであります。

2015年6月25日木曜日

ホトビジネスのインパクト

TEDxHimiのチームが少しづつ動き出している。
実際には、これから価値を作っていかなければならいノーマークの田舎TEDxで、そもそも来年1月の本番のクオリティが低かったらなんにもならない。
とはいえ、TEDxの看板があればそれでオッケーなので、とりあえずつながっておくということも、不可能ではない。
実行していく以上は、加速して練度も向上させていきたいわけで、斜に構えていては価値の向上に失敗すると考えている。
それでなくても、せめてTEDの動画のなんの価値を誰かに広めようとしたことがあるかという問いにまで口ごもられるわけだから、とりあえず、何か最初のハードルを自分で決めさせてあげるから、それを飛び越えてこっち側に来たまえとしか言いようがない。
成功は分かち合いたいが、当然、失敗の可能性もある。TEDを半端にしか知らない皆さんにはTEDxに関わったんですよと言えば多少の箔は付くのかもしれないが、この遊びの本当に面白い部分は、そんなところにはない。
まてよ?箔さえ付けばいいって連中は、別に面白くなくてもいいのか。これはしまった。
スタッフは絶賛募集中です。価値を広めるとは、どういう行為を言うのか、そもそも価値ってなんだとか、なにをどう広めるのかについて、いろいろやってみませんか?

SMLM

午前中、知人からタレコミ。富山にも「ジェムリンガ」に蝕まれたコロニーがあった。
どれどれと、教わったURLを見に行くと、これがまたとてつもない深さの業を感じさせる。途轍もないと漢字で書き直したい。
しかも、ソーシャルネットワーク界隈で容易に観測されるマルチ文脈との親和性も高く、その香ばしさは、久々に定点観測でもしなければならないのかと五分ほど悩んでしまうレベル。
スピリチュアル、身体、性、女性性。自ら進んで告白していける様に仕向けていく構造。
あまりに熱いので、勢い余ってTumblrに以下のエントリーを上げる。

nakazomblr
http://nakazo.tumblr.com/post/122308226243
考察の行方 
霊感商法だったら商売としてコピーするの難しいけど、ゆるふわスピリチュアルはどこかで占いっぽい妥当さとか、身体感覚みたいなところとかに持っていくことがあって、技術としてコピー可能だったり、商材として扱えるって寸止め感覚のまま、心に入り込んで思い込みに作用するから、そんな意味ではたち悪いな。
自分が体験している状態を、間違って教えられている可能性については、なかなか他人に違うよと言われても、認めるの難しそうだ。
高額の自己啓発に突っ込む奴が、この金で覚悟を買って自分を追い込んで上に行く!のと似たような論法に、更に神秘が交じるわけで、あなたが反発するのも、魂が凝り固まっているせい。とか言われると、その時点で終了だ。
ここにMLMが絡むと、そもそもが信用のストックを消費しながら展開していく宿命上、喉から手が出るほど欲している、クライアントの個人的な納得と忠誠心を入手できるわけで、強い。強いな。なんて強いんだ。
そんなわけで募集します。締め切りは明日の17時。
前金応談と儲け折半で、新時代のSMLM(スピリチュアル・マルチ・レベル・マーケティング)のスタートの理論を教えます。君の覚悟が本物なら、運命は自ずと開ける。
すげぇ将来性のある、社会のためになりそうなビジネスだから、志を応援する意味で大サービス。
だいたい80ページぐらいのパワポ、普通ならこれ、40万相当だよ。って感じの資料を作っとく。無料でつけちゃう。
まずはコメント欄、メンションで挙手。直メッセージは無視すっからね。
覚悟を示せ!
やってらんないっすね。

血パンダの稽古

夜は血パンダの稽古。車が壊れた栗山を拾って呉羽芸創へ。
まもなく本番。役者の仕上がり方はいい感じだが、まだ台本が本当の完成にまではいっていない。
題名は一応、『オスティナート』『執拗音型』『執拗反復』といった辺りから、そのままか、何かこういうことを連想させる題名でいくことにする。というか、明日にはフライヤーを印刷屋さんに突っ込もうと思うので、早々に何か決めねばならない。

2015年6月23日火曜日

日記だ。日記書いてやる!

Web日記というものがあったことを思い出した。
とりあえず、何も考えずここに日記を書きなぐる方向で、ちょっと自分のペースを調整する。

ここ2日ほど、後輩の柴田剛とSkypeで話しをしていた。3月11日の震災で、少なくとも暴力的な祝祭が全てを包み込んで終わる様な物語りを終わらせて、果たして何があるのかということをずっと模索していた。祭りは始まりでしかない。
ひとつの答え、二人の共通認識は、昨年の12月に出ているが、そのプロットはそのまま放置されている。
昨日、今日で、その応用ともいえるコンセプトがひねり出せた。あとは剛任せというのが悔しいところだが、また紆余曲折するのであれば、その時にまた考えよう。
もったいないので、どうにか映画にしてしまって、沢山の中学生や、噂を聞いてドキドキしながらレンタルビデオ屋をさまよいブツを探す様な高校生に見せたい。見た瞬間はわからなくても、見さえすればいいというのは、『おそいひと』の時も同じ。再上映の噂を聞いて映画館に走れ。
剛の映画がけっこうきちんと映画の文法に則っていると口走ることに、誰も躊躇しなくてもよくなればいいだけじゃないのかとは思うが、仕事となると、そういうことは関係なくクリアしなくればならないところもあり、なかなか難しいのだろう。

午後、小矢部の「マリオのパン」に行こうと途中まで出るが、他の電話連絡などしているうちに中途半端な時間。母から、ちあきちゃんの不在の可能性を聞いていたので、電話すれど誰も応じず、行くのを中止する。
高岡の{仮}に寄って千葉に業務連絡。ddコマンドの完了に時間がかかりまくる件、何かWebで見かけたという話しを聞くが、帰宅して調べてもそれらしいものは見つからず、とあるところから預かってきた2テラのハードディスクのコピーが……。
いままでとは全く違う速度でエラー吐いているので、もう一晩放置してみる。

読書

講談社学術文庫『スッタニパータ』に手を付ける。高校の倫理の時間とかのタイミングで手を出していたら、いろいろ変わっていただろうか。
『仏教思想のセロポイント』と『アップデートする仏教』を経てみると、なんとも味わい深いというか、ブッダの揺るがなさが形容しがたく、そう感じている自分に、あらぬ本読んでしまった後の取り返しのつかなさを覚える。

2015年6月12日金曜日

一部の人に衝撃のネタバレ

価値基準を持たず、試行錯誤してクオリティを上げる方法も知らないままに、セオリーだけをかいつまんだ状態というのはとても危険というか、その聞きかじりのセオリーを口にすること自体が害悪だなあと、いらつくことの多い週だった。

これは今週のことではないけれど、アートと工芸とデザインの違いとか、サブカルはあくまでサブカルですよ。とか、そういう類のこと。
じゃぁおまえはわかってんのか?と問われて答えたとして、自分より理解の深い人に当たれば、こちらが赤面して勉強させていただくことになるし、単にそう聞くのがいいと思っているだけの人間には、何を言ったところでなんにもならない。
富山県に帰ってきてからは、確実に「これは好みの問題になってしまうので」という風にして、寸止めで突き詰めないまま中途半端な理由のないものを許容せざるを得ない場面を多く体験している。
好みの問題とか言うなら余計に、好む理由を述べたまえよと、そういうことだ。
子供の頃からただ単純に好きなだけなら、それも理由だから正直に言えよと。そういうことなら仕方がないなぁってなるか、大人がちゃんと用意した理論でガキかよとねじ伏せるかは、その時まな板の上にあるもの次第ですよ。

現実を基に机上の理論が発生したり、様々なノウハウの積み重ねから鍛錬を要する技術が生じるわけだけれど、それらを抑えておいて現実と対面すると何がいいって、かくあれという目標のクオリティをしっかり高く保てるからで、単に背景もわからず、実際に照応できる訓練も経験も無い人間から聞きかじりのセオリーだけを教わってもなんにもならない。
ノウハウ本読むことが投資で、それをネタにセミナーやるのが改めて自分の勉強になるとか、そういうやつですよ。講師自身にノウハウの検証できてるかの検証の術が無いってのも、乙なものです。
Webの活用で、適当にセオリー吹きこまれて困っている人のトレーニングをやっていと、いろいろ不愉快なものにあたります。

最近、しょうもないことを聞かれたら、大概やや斜めに外し気味のロジックを二周ぐらいさせて煙にまくんですが、基本的には自分で本気でそう思っていることをしゃべっているので、安心してください。日常の会話の中でしか担がないので、他所で喋っても大丈夫だぞ!

あ、「いべ」ってのが東北のどこだったかの「どんぐり」の方言で、「いべる」ってのがどんぐり食わせて動物を飼育することなので、「いべり子豚」ってのは、「どんぐり食わせて育てた子豚」ってのは、かれこれ二十年ぐらい使ってるネタだから。まさかとは思うけど、気をつけてね。

そういえば、先日見かけて、思わずポチりました。今日届いたので、今からチマチマ読みます。
あ、気分は週末に突入したってだけなんで、悟り得たいとかそういうんじゃないので、大丈夫。

文化とはなにかについて考えさせられている

食育サポーターというのをやっている、うちの母から聞いた話し。
ちょっと前まで氷見市では市内の年長さん全員に魚の捌き方を教えるというのをやっていた。市から予算もらっていたものだが、去年からこれがカットされて、年長さん全員ではなく、一部の幼稚園、保育園で実施、人数にして半分ぐらいの年長さんにしか魚の捌き方を教えられなくなってしまった。

教えていくなかで、魚の味噌汁を作ったりもするんだけれど、捌いた末の刺し身やら骨やらが、調理後の魚と同じものだと認識していないというのはよくある話し。そもそも味噌汁を飲んだことないので、飲みたくないという子供も居るというのだから、なかなか食育も侮れない。
氷見界隈ではそもそも、魚の味噌汁はお椀ではなく、「ちゃん鉢」という深皿によそわれる。魚の身が食べやすいようにということらしいが、そもそも同じ富山県内でも「ちゃん鉢」が通じない場所もあるわけで、何かしら次世代に伝えていったら良さそうな文化だ。

母とは別ルートで聞いた話しによると、氷見市は今後「魚食文化をリードする」というブランドイメージを定着させていくべしということになっているらしい。
昨日とれた魚に見向きもしない氷見の魚食文化を以ってして、何をどの様にリードしていこうというのかと、そこは気になるところ。加工業も存在してはいるけれど、実際に「食文化」として家庭に根付き、受け継がれている魚食にどんなものがあるのかと、振り返ってみると、果たしてなにをもってリードとするのかの定義すら怪しい気もしている。
皆無ではない。
魚の捌き方ひとつ取っても、そもそもが漁師の娘で、既に六十歳を過ぎているうちの母が、「思えばこの魚、もう少し上手く捌ける気がするんだけど、なんか包丁の入れかたあるの?」と伯母に聞く場面を見ることがある程度には、普段から魚を食べている。
が、「魚を食べる文化」と呼べるもの、そう定義しようとしているものの受け皿の有無については、非常に疑わしい。
それこそ、捌き方なんて園児全員に教えるまでもないので、予算カット。という市の判断もやむを得ないと思われるくらい。魚自体に対して豊か過ぎるのではないかと考えている。
母によれば、予算カットの理由は、「毎年工夫もなく同じことをやっているから」だそうだ。
ストレートにやればそれでいい。仕事は要らない。昨日の魚は干物にもしない。この豊かさで何をリードするのか。刺し身が食べられないなら昆布締めにすればいいじゃない。というマリー・アントワネットの様なことでは冗談にもならない。

だが、氷見の食の豊穣さについては疑う余地はない。
味噌汁を飲んだことのない子供が居る一方で、日常、氷見産の煮干しで出汁を取り、自分で栽培した大豆で仕込んだ味噌で味噌汁を飲んでいるという家も、一定数存在している筈だ。うちも、大豆が自前のものではない年も増えてきたが、ずっと自家製の味噌を仕込んでいる。
このコントラストをどうにかするのは誰の役目だろう。
食卓の自給率の様なものを指標に取れば、簡単に氷見の豊かさや様々な分野にまたがる特徴や努力目標が見えてくるし、数字として把握もできる。

つまるところ、ありそうに見えて、実は無かったものに邁進するのは、上っ面だけの大甘な分析を基板にしているからなんじゃないの?と、その点を強く疑うものだ。
今後の動きについても見ていきたい。それと、今年、そのつもりで準備していたのに、結局大豆をスルー。来年植えねばと反省しているところ。実は、味噌が足りなくなってつなぎで買ってきたやつが不味かった。こういうことではいけない。

2015年6月6日土曜日

TEDのトーク、どれ好き?という話しになって思い出した。

ジェイミー・オリバーの料理番組は、無目的にテレビのチャンネル変えていて放映しているとつい見てしまう。初めてテレビで見て15年近く経つけれど、真似してみようと思ったことがほぼ無いのに見てしまうというのがたまらない。テレビを見ることが少ない割に、量を見ている気がする。

食ということになると、人の脳みそは結構蝕まれている。
「虫で赤かったなんて!」とか「プラスチック食ってたなんて!」とか「腐らないのは変だ!」「工場が衛生的だからだ!」という言い合い。

人間ってのは、呼吸も含めて不純物を取り込まないと生きていかれない上に、燃費も悪くてダメな動物なわけで、それでも食物をありがたくいただく文化を獲得しているというのに、「食うな!」という皮肉に対しても「不食の一派が……」という斜めからのまじレスも入る始末。

なにがなんだかわからないんだが、とにかく美味いものが食べたくて、健康にはなりたくて、好き嫌いやら、そもそも食べられないものやら、なんにしても、自分が食いもんでガタガタ言いたくなる瞬間自体、いい気分ではないし、誰かが食いもんでガタガタ言っているのを見るのも嫌だ。

ジェイミー・オリバーのスピーチはガタガタ言うべきところは何処かという彼の視点がクリアになっていて、とてもいい。彼の言い分が納得できれば、自分の行動に落としこむこともできる。つまり、愛ティアを広めることに加担できる。素晴らしくTED的だ。