2015年12月28日月曜日

冬の遊びに備えろ!

ストーリーキューブを振っても、いまひとつお話に至らない日々が続いていますが、小僧の方は絶好調な様で、仕事している横で次々おはなしを作るので、思わず録画してしまいました。

サイコロをふるスペースがないので、缶にいれております。
これはこれでガラガラ音が出て楽しいのと、サイコロが飛んでいって気が散らないので良い感じ。

5歳でもガンガンいけます。みんなもどうだい?
結構本気というか、誰かが遊んでいる様が見たかったりもするので、思い切りAmazonに誘導しちゃうんだぜ!

2015年12月25日金曜日

その火を飛び越して来いと、初江が言ったのとは全く関係のない話し。

真面目な感じで、とある値を取得していたとしねぇ。Wordpressの話しよ。
こちとら、自分が楽するためのスクリプトとかを、稀になんとなく数行書くことがあるだけで、プログラマーじゃねぇから、とにかくちゃんと拾えるのかどうかってレベルから、いちいちおっかなびっくりよ。
もうね、関数リファレンスとか見ながら、あー、やべー。でも、これはもうwhileの中なんだし多分これで回せば全部取れて、出力も……。
とかやるわけですよ。思ったものが拾えました。出ました。出た。
でもね。なんでコンマで区切って出力するの?やだ、そんなことお願いしてない。
というか、いろいろそういうのをfunction.phpで定義しないためにもプラグインに頼ったりしたわけですけど、これに関しては、そちらも守備範囲の外なの?と、暫く悶絶します。
しょうがない。出てるもんは入れてる筈だから、こいつの形をデフォルトで定義している場所に行き当たれば、思ったとおりにできる筈!どこやねん!
というか、そんなわけでWordpressCodexで言及されてるファイルに行ったら、確かになんかそれらしいことは書いてあるけど、コンマは何処に消えた。もっと奥なのか!Wordpressの奥の奥か!
絶望して別の方法を探すわけですけど、それがあなた。
探して試したら一瞬でポンですよ。だって、そっちの方法なら、自分でその場で出力を定義できるわけで、今までforeachとかね、配列に突っ込んだりしていたのそれがあんた、ほんの一行やないか……。いえ、それが関数ってもんですよね。細々とした手続き、ありがとうございます。
  1. キーワードをそのものズバリしか知らないので、直に触る方法を発見してそいつをこね回す。
  2. そうこうしているうちに、別の言葉も発見して、もうちょい便利にやってくれる方法を見つける。
これってなんか成長みたいな感じに見えるんですが、Wordpressのテーマディレクトリの外には絶望しかないから、出るな。オケー。出なきゃダメな感じってことは、他に方法ある筈だから落ち着け。ってことですかねぇ。多分そうね。
支配されろ!この幸福に飼われろ、って、そうですよね。仕組みを選ぶってのはそういうことでした。

雑念が多すぎて、プログラマー全然向いてないと言われたもんですが、ひしひしと噛み締めてしまいまうクリスマスイブでした。

2015年12月22日火曜日

もういい加減、剃らなくていいぐらいハゲないかなぁ。

風呂場にずっと、接合部分に錆の浮いたシェービングクリームの缶がある。
いつからここにあったものか記憶にないが、この缶を使っている最中に、なにかの理由で新たなシェービングクリームが家に持ち込まれ、その都度利用が中断されてきたものだ。
中断の理由は様々で、旅行先で買ったシェービングクリームを使い切るためだったり、試供品を貰ったり、なぜか何処かから新しいものが持ち込まれたり、そうしているうちに、缶が錆ていき、切れたものと勝手に勘違いされて新しいものが補充されることもあった。
結局何年使い続けたものかわからないが、このシェービングクリームは中身が切れることなく使い続けられ、そしてその見てくれや、代わり映えはしないが、その時々の理由で別のシェービングクリームによって利用が中断され続けた。
今日も、風呂場で泡を出してから、そういえばこのシェービングクリームは切れないままだが、一体どうなっているものかと思い、改めて手にとって振ってみたところ、どうも最初に泡を出すために手に取った時よりも格段に軽く感じられた。
振った瞬間には中身のある様な感触があったのに、改めて泡を出してみると、弱くガスが出るだけで、全くそんな気配は無かったが、ついに使いきってしまった様だ。
日常から魔法が消える瞬間というのは、決まってこういう風だと改めて知ることになった。

2015年11月29日日曜日

算数よりも、こういうのの方が問題かもしれないと思いつつ苦笑い。

娘の音読を聞く。
今、国語の時間でやっている「ずーっと ずっと だいすきだよ」で、主人公は誰かというやつに納得いっていない様子。
幾度か読んだ後に曰く「やっぱりおかしいが。“ぼく”はエルフの話しをしとる人やから、話しの主人公は“ぼく”じゃなくてエフルで、“ぼく”は話しをする人やよね」
この間、授業を見に行った時に俺もひっかかったところ。なんだ一緒じゃんと思うものの、あんまりそういうところにこだわると、ろくなことがないのは、小学校低学年の頃に父がアホほど経験済みだ。本当にろくなことがない。
さて、大変もうしわけないが、こだわりすぎて先生と衝突しちゃダメよってこと以外にいいアドバイスないや。
とりあえず、物語には「主人公」と「話者」というのが出てくるやつがあるんだけど、あんまり複雑な感じで考えてもしょうがないから、他にもいろんなのを読んでみようよとお茶を濁す。
なんとなく検索してみたら、教材として使っている模様も書かれている。娘の授業でも似たようなことをしていたので、定番の進め方なんだろう。ここでも主人公は誰かを討論させるだけで、話者の話しはしないみたいだし、結論も出さない。
ひっかかるところは、いくらでも拾うんだが、どうやって娘に不満を持たせないかというか、娘のガスを抜くかという問題がある気がしてきている。
http://www.geocities.jp/bzbzbzkoji/1nen/zuuttozuttodaisukidayo.html

2015年11月12日木曜日

困ったままの男

むかしむかしあるところに、ひとりの男がいました。
まったくなにも変わったところのないただの男でしたが、道を歩いていて、サイコロをひとつ見つけました。何気なくそのサイコロを拾って、橋のたもとまでくると、次は天秤を見つけました。
男は、サイコロと天秤、どちらかを選ばなければならない気がして困り果てます。
なにせ、この二つのどちらかを選ぶというのが、これまでのなんでもなかったただの一生のなかで、本当に重大なことだと、直感したのです。
男が悩みに悩んでいるうちに、時間が経ちすぎて、世界の法則にまで影響が出始めます。
魚は用事がなくても木を登り、流れ星は消えてしまわないで地上に挿した蹄鉄があれば、それをくぐって再び空に帰るのです。
一回寝て起きてしまえば、なんとかなるですって?笑いごとじゃないんですよ。
さすがにあまりのデタラメはよろしくないということで、世界で起こる突飛なことはかなり控えられているんですが、男はまだ、どちらか選べなくて困っています。あまりに長く困りすぎて、橋につきものの何かになってしまい、あらゆる橋のたもとに立ち尽くす様になりました。
それが証拠に、どこかで新しい橋がかかった瞬間に、じっと目を凝らして橋のたもとを見れば、困り果てた男の姿を一瞬だけ見ることができる筈です。

2015年11月11日水曜日

落ちてきた項目

むかしむかしあるところに、一冊の百科事典がありました。
その百科事典の「L」の項目は、すべて流星と一緒に、地球の外からこの本に落ちてきたものです。
なので、それが確かに「L」の項目だというのに、見ても全く意味がわかりません。
それでも人は、「L」の全ての記述に雷に打たれたような衝撃を感じ、この本を他の人には見せたくない。見られたくないという風に考えてしまうのです。
しまいには、この本を巡って戦いまでおこってしまいます。
そんなこととは関係なく、季節は巡って花が咲くというのに、一体どうしてそうなるのか、誰にもわかりません。
でも、実際に「L」の項目を見たら、あなたもそんな気持ちになるはずですよ。

2015年11月10日火曜日

昔の人

むかしむかしあるところに、ものすごく高いビルと呼ばれる建物がありました。
今はもうそんなものがなくなってかなり経ちますが、そのころはものすごく高い建物がたくさんあったのです。
その頃、人間はまだ蜂が通信の役に立つことも知らず、わざわざ電話という道具などを使って、苦労して離れた場所の人と通信をしていました。すごく高い建物というのも、そういう苦労のひとつです。
人間はかつて、そういうおかしな苦労をしていただけではなく、いろいろなものに突き動かされて向こう見ずな冒険や、公園の噴水をお風呂にする様な、考えられないことを繰り返していたのです。
ご存知の通り、あの目を見張る様な素敵なできごとを境に、今の人間はそういう馬鹿げたことをしたくなったり考えたりしてしまう性質に、うまく鍵をかけられたので、そんなことはもうしませんけれど、やっぱりなんだか驚きですね。
なにはともあれ、あんまり難しいことを考えないで、居心地のいい家でのんびりしていたいものです。


2015年11月6日金曜日

なにしてまんねんって風邪ひいてまんねんというか調子悪いっす。毎年この時期こうじゃないか?大丈夫か?

頭いてぇなぁと思いながら、治ったりまた痛くなったりというところに、ほんのり目ばちこ出てみたり、葬式やら報恩講やらで右往左往してたらあっさり11月ですよ。
だらだら頭痛かったり治ったりを長引かせてるのもやめにして回復せんとろくなことなさそうなんで、ちょっと真面目に寝ることに……。とか言いつつ、バタバタしてて調子悪いとどのみち手は止まっていたわけで、そっちの方がいかんということで、日記であります。

先日から、あれやこれやで小矢部のマリオのパン屋さんの全粒麺のネット通販に手を染めております。
http://shop.mariopan.net/
十月末は欠品やばいんじゃないの?と、ヒヤヒヤしていましたが、どうやらそれもクリアできそうな様子。ガンガン出荷したいものであります。
で、この全粒麺、なんかもっと食べ方の提案しなきゃねということで、いろいろ計画練ったりハナシをしたりしております。
和風のダシはどうよ、カレーうどんはどうよ、トマト鍋のシメはどうよというところから、あわよくば富山産でダシの素になりそうな乾燥しいたけやら煮干やらを小分けの袋にして販売とか、カレーうどんのレシピとスパイス小分けにして売ろうよという算段もしております。
スパイスの方は、マリオさんのところの方針で、なんだかんだで体冷やす方向寄りになるので、冬はやらないということで、お目見えは来春ですな。
とか言いつつ、ぼんやりカレーのことを考えていると、ついつい食べたくなるもので、なんだか先日から狂ったように手抜きのカレーで欲を満たしております。
食べに行かないのかといえば、そもそも全粒麺のカレーうどんのイメージから欲がきてる様で、不思議と自作一択。
こういう突発事故の様な欲を満たすには、SBから出ている中辛のカレールゥのフレークがなんとも便利でして、これ適当に野菜切って肉と一緒にフライパンで少量の水で火を通したところにトマトジュースとコンソメキューブ突っ込んで、一緒にカレーも放り込むと、もう普通に一人前のカレーができちゃいます。本当に、なんも考えなくてもできる。お好みでスパイスでもなんでも突っ込みなはれという代物。
それにしても、ルゥというのは、なんともいえない堕落を引き起こすもので、こういう手抜きはいかんですなと、再確認させられている次第。

私、家を出ての自炊生活を経た後、カレーとか肉ジャガを母親の手料理と結びつけて持ち上げるのは、「わかりやすさ」で思考を止めることを目的とした悪辣な様式の固定のひとつだと主張しております。カレーも肉じゃがも、自分の食べたい様に作れないなら、菓子腹でブヒブヒ言っておけと、お母ちゃんの作ってくれる料理の中には、もっと地味で自分では率先して作って食わないけれど、美味いものがあるんじゃないのかと、そこです。や、無い場合もある。
それにしたって、漫画の『深夜食堂』なんかを見れば、モチーフになり得る食と記憶、イメージなんてのは、もっと多様でいいということは、理解できる筈。
そこですよ。流布したイメージが先か料理しなくなったのが先かとか。面倒なハナシの入り口です。
や、それはさておき、今見たら、amazonでまとめて二缶とか買えちゃうのか。これもこれで、恐ろしい世の中ですね。ただの欲ならさっと満たせるわけで、じゃぁ、そこからどうすんのかというところ。
S&B 赤缶 カレーミックス200g×2個

2015年10月21日水曜日

塔の中の炎

むかしむかしあるところに、ずっとずっと消えない炎がありました。
炎は、どれだけの大きさかもわからないほど、途方もない大きさの亀の背にある塔の中で、世界の始まるなお前から、ずっと燃えていました。
これが誰のものなのかについては、多くの見解があり、世界に文明が登場するようになってからこのかた、多くの宇宙人の文明も含めて、様々な意見が交わされ、争いも起きていました。
それこそ、気が遠くなるほど長く、いろいろと話し合われていますが、亀と塔と炎は多くの文明にある程度の痕跡が見られ、真面目に話し合いをすればするほど、全く埒があかなくなって誰もが困り果てるのでした。
そんなことがずっとずっと続いていたのですが、やがて、話し合いにこなくなる人たちが出てき始めました。そんなときは決まって戦争の準備をしていたりするので、また戦争になるのかと皆が肝を冷やしましたが、全く音信がなくなってしまったので、調べるとこれまでとは様子が違っていました。
話し合いに来なくなった人々は、塔を自分たちのものだと思い詰めるあまり、塔の炎の記憶を失っていて、それが自分たちのものだと考えること自体を忘れてしまっていたのです。
自分たちが住まう惑星が球体であることを発見し、世界の大きさほどもある亀など、どこにも存在の余地が無くなってしまった文明もありました。
そんなわけで、この島には、あらゆる思惑を持つ者は立ち入らず、この場所の存在にもこれ以上関わらない方が良いのではないかと、そんな風に話し合いが決着しました。塔の炎を大切に思いつづけるには、そうするのが一番の様です。
そんなわけで塔の他には、長い争いの後、ようやく復活した草原に住まう蜂や花たちだけを残して、もうだれもそこには近づかないことになったのです。
それからというもの、別々惑星や、時間、世界に住まう人々が会って話しをすることもすこしづつなくなっていきました。
あらゆる灯火が炎から電灯に変わるよりも、ずっと前のお話しです。

2015年10月19日月曜日

庭の秘密

むかしむかしあるところに、月に照らされた噴水の美しい庭がありました。
この庭は、月夜があまりに美しいので、王様が魔法使いに命じて、そこだけずっと月夜のままになっています。
ある日のこと、一人の宇宙人が懐中電灯を携えて、この場所に調査に来ました。宇宙人には魔法のことがよくわからないので、無理もありません。
どんな秘密があるのだろうと、宇宙人は鍵を探しますが、四方八方どこを探しても魔法の秘密にはたどり着きませんでした。
散々探し回って見つけた怪しいものといえば、一本の矢とサイコロ。
宇宙人はとりあえず矢を抜いてみましたがなんにも起きません。宇宙人にはわからないことですが、この庭に魔法をかけたとき、魔法使いはその矢を使って夜と月光を縫いとめたのです。
そして、今の宇宙人の様に、矢を抜く人があっても、縫いとめた力が消えてしまわない様に、魔法の源をどこかの何かを縫いとめているものに、サイコロを振って移動させたのでした。その時出た目は「五」。
魔法使い本人にも、どこに行ったかはわかりませんが、魔法を続けさせる力は、この矢から五つ離れた、何かを繋ぎ止めているものに宿っていて、それがなくならない限りは、この庭の夜も縫い止められたままです。

今はどうなってるかって?魔法が消えたという話しは聞きませんから、ちゃんと探せば世界のどこかに庭は残っているはずです。

2015年10月17日土曜日

長い移動をどうにかするアイディア

むかしむかしあるとろに、一匹の亀がいました。
亀はある日、どうしてもエジプトに行かねばならなくなったので、とりあえずリンゴを背中に乗せて出かけました。
亀はそれなりに急ぎの用事だったので、はやくエジプトに行きたかったのですが、歩くより他に手立てがありません。
とりあえず、いつもの人間に相談でもしたら、なにかいい知恵が降ってくるかもしれない。
亀は知り合いの男を訪ねて、エジプトに向かうことを告げ、早く着く知恵はないかと男に聞きましたが、男は困った顔です。
「人間ならパッと移動する方法を知ってると思ったんだけどなぁ」
「そもそも亀がエジプトに用事と知っただけで、普通の人は変に思うよ。その方がいろいろ余計な邪魔が入りそうだよ」
そんなものなのかと、亀は衝撃を受けましたが、とりあえず男とリンゴを食べてお茶にしてから、本当に本式にエジプトに向けて出発しました。
昼過ぎに出たんだから、まだ4時間も経ってない。そんなに簡単にいい考えを思いついたり、誰かのいい考えにありつけたりするわけがないか。
出鼻をくじかれて旅路を閉ざされた気分ですが、それはあくまで気分の話し。万年の寿命のうちならば、たどり着かないなんてことはないと亀は知っていましたから、ただ向かうだけのことです。

2015年10月16日金曜日

世界が変わってしまうほどの勝手な大勝負

むかしむかしあるところに、一本の木がありました。
その木の下で、時々、月と魚が大きな勝負をしました。
その頃、魚は月になりたくてどうしようもなく、月は本当にやさぐれていて、とてもたちの悪い博打打ちでした。
たくさんの勝負の結果、今、皆さんが暮らしている日常があるわけですが、どっちがなにを賭けた結果こうなっているのか、細かいことまでは記録に残っていません。
でも、月と魚の勝負のせいで、人生には秘密の鍵めいたものがちらつく様になり、地球上では磁石が北を指し示し、矢を放った後は方向転換ができない。そんな運命の決まりごとができてしまったことは確かです。
他にもたくさんの法則が勝手に変わってしまいましたが、すっかりそれが普通になってしまって、本当の大昔はもっとましだった筈だったのに、誰も文句を言わなくなってしまいました。
今はもう、月と魚が大勝負をした木は枯れて跡形もなくなり、月は何かのきっかけで博打をやめ、魚も水から出る様なこと自体、概ね無くなっています。
やめるなら元に戻してほしいものですが、賭博とそれにまつわる運命の法則が、無かったことにするというのを許さない様です。

2015年10月15日木曜日

困ったデタラメ

むかしむかしあるところに、魚の木がありました。
魚が木になっている様子なんて、なかなか想像できませんが、そこで実った魚は決まってある季節の雷雨の日に木から落ちて、とにかく地面に雨水のあるうちに、どうにかもがいて近くの川に入り、それからは普通の魚の様に暮らします。
さすがに、こんな常識外れの木を目の当たりにして、心がおかしくならずに済んだ人は少ないので、この木に近づくことは全くお勧めされていません。
とはいえ、『魚の木近寄るべからず』と書いては逆効果。好奇心に勝てる人は稀です。
そこで考えられたのが、魚の木を遠巻きに囲む様に作られた公園の遊歩道です。
この遊歩道のタイルは、なんとなくこっちかな?と思わせる、うっすらと矢印めいた調子の模様になっていて、人は我知らず木とは逆向きに誘導されていきます。
これも、あからさまに矢印などの模様にすると、逆の方向に興味を示す天邪鬼が多く登場したので、長い時間をかけてこんな形に工夫されたものです。
リンゴの木ならまだしも、あんなデタラメなものはとにかくやめにしてもらいたいものだ。
木の近所のみんなは、そんな風に言って困り顔です。
こういうとんでもないデタラメというのは、いざ身近なことになると、なかなか困ったものの様です。

2015年10月14日水曜日

魚とピラミッド

むかしむかしあるところに、一匹の魚がいました。
ある夜のこと、その魚は、宇宙との交信係りとして、寝ずの番をしていました。
魚たちはこの百年、大宇宙連合と交信する地球の代表の生き物として多くの功績を残しています。これは特に不思議なことでもなんでもなく、人類が誕生する以前から、魚たちは長い間地球で生きていましたし、その間に爬虫類や両生類とともに、広い宇宙に住む他の知性と交信する様になり、それが今も続いているだけのことです。
魚がどうして?と思うかもしれませんが、この広い宇宙において、知性というのは、人がわかったつもりになっている以上に広く深く、境界のわからないものなのです。
いつもは特になんでもない宇宙との交信で終わるのですが、その夜は、宇宙人から緊急の報告がきてのんびりしていられなくなりました。地球に大きな流れ星が激突しそうになっていて、たいへん危険なことになっているというのです。
これは一大事。魚は大急ぎで他の魚たちに地球の危機を知らせました。
時間は刻一刻と迫っていますが、魚たちは力を合わせ、慌てることなく流れ星の様子をよく観察し、ピラミッドから特殊な磁力を発射して、どうにかギリギリのところで、流れ星の軌道を逸らすことに成功しました。
ビラミッドはそもそも、地上に大きな影響を及ぼせない生き物たちが、大宇宙連合にお願いして、いろいろ工夫して建てた地上の建造物で、人間が思いもよらない、いろいろな働きをするのでした。
そんなわけで、魚たちのおかげで、地球はまたひとつのピンチを切り抜けることができました。
でもこれは、いつもの三日月の夜、皆さんが眠っている間に起きたお話し。ご存じないのは、やむをえないことですね。

2015年10月13日火曜日

言葉の裏側の木

むかしむかしあるところに、といっても地上のどこかは秘密ですが、一本の木が生えていました。
いいえ。その木は今も、確かに世界の何処かに生えています。
その木は、あらゆる言葉の裏側にあって、全ての木に似ていて、どの木とも全く違う。ただひとつの木です。
その木の根元には、かつてその木にたどり着くことのできた誰かの足跡がひとつ残っていますが、その人物がどこの誰なのかもわかっていません。
多くの人々が、その木を目指して無謀な冒険に出たり、その木を我が物にしたら世界を手に入れられるという、根拠の無い誘惑に駆られて自分を見失い、沢山の愚かなことを重ねていますが、木の場所の手がかりは未だに多くの謎に包まれています。 それでも、人が言葉を話すからには、確かに世界の何処かに木はあるのです。
ひょっとしたら、たった今、木の存在にとりつかれたあなたのお友達から、木を探す冒険へのお誘いの電話がかかってくるかもしれませんが、これまでこの木に関する野心の果てには、かならず悲惨な末路がついてまわる決まりになっています。
寝たふりをしておくのが一番かもしれませんね。

2015年10月11日日曜日

散歩

むかしむかしあるところに、ホテルの最上階を住まいにしている男が居ました。
男は、心の悪魔と上手に話しができるおかげで、損得の計算が鋭いほど上手く、磁石が砂鉄を吸い寄せる様に、お金をたくさん吸い寄せることができます。
そんな男が、老人なって杖をつく様になってからのことです。何気なく散歩に出かけた雨上がりの昼下がり、立ち止まってふと空を見上げると虹が出ていました。
特に不満のない一生だが、この虹のせいでいまさら何かを感じることがあるとしたら、何があるだろうかと、男は考えました。
この虹の向こう側を考えたことがあっただろうか。多くの鍵があり、鍵穴があり、どこかに続く扉があったかもしれない。
どれだけの扉の鍵を見つけただろうか。どれだけの扉があっただろうか。
男は、これまで生きてきた中で、鍵や扉と思えるものを空想しました。鍵しかなかったもの、扉しかなかったもの、開いた扉、開かなかった扉。確かに多くは開かずじまいで通り過ぎてきましたが、それでも男は今ここにこうして生きていて、空を見上げています。
虹はどんどん薄くなっていき、男は空想をやめ、散歩も中止にして部屋に帰ることにしました。

男は、今すぐに試すことができる鍵と鍵穴を確かめずにはいられなくなったのです。

2015年10月9日金曜日

月を見る会のはじまり

むかしむかし、あるところに大きな窓のお屋敷がありました。
そのお屋敷の主人は、月の見える夜にはずっと月を眺めることを、なにより楽しみにしていました。
ある夜のこと、家の主人がいつもの様に月を眺めていると、遠くの道を急ぎ足で歩いていくクマの後ろ姿が見えます。
普段は空しか気にならないのですが、その急ぎ様といったらありません。
あれはいったいどうしたことだろう。
とはいえ、すごく遠くを急いでいる姿が見えるだけなので、もう声をかけて止めることもできず、確かにクマだとはわかるものの、山向こうのクマだか笹谷のクマだか、クマがわからないので電話をかけてみたり、磁石で引き寄せることもできません。
それにしても、クマがあんなに大急ぎでどこかに向かうなんて、聞いたことがありません。しかもその方向にあるのは、なんにもない小高い丘だけのはずです。
月は眺めていたいですが、そろそろ窓からは見えなくなってしまう時間です。主人は思い切って、クマの後を追いかけてみることにしました。
やっぱり、道はただ思った通りの丘の方に続いています。なんにもなくて、そもそも誰も行かない場所です。
ところが今夜は、そこにテントを見つけました。テントの脇の長椅子で、クマがのんびり月を眺めている様です。
テントの脇に、長椅子がもうひとつあります。空には素晴らしい月が光っています。
こうなってはもう、声をかけるしかありません。
「お見かけしたところ、あなたも月を見るのがお好きな様ですね」
主人が声をかけると、クマが起き上がり、声をかけてきたのが窓のお屋敷の主人だとわかると、びっくりして椅子から転げ落ちました。
クマはあたふたしながら、きをつけをして、しどろもどろに主人に答えました。
「実は、あなたがずっと月を見ているのを不思議に思って、自分でも見る様になったら、月を見るのがすっかり楽しくなってしまったのです。私にはお屋敷は建てられないけれど、この丘の上にテントを建てて準備しておけば、一晩中でも月を見ていられることを見つけたので、月のいい夜はここに来ることに決めたのです。今日も、動物たちの会合があったんですが、終わるのが待ち遠しくて待ち遠しくて……。終わってから急いでここにやってきたのです」
二人は改めて月を見上げました。
なるほど、窓越しの眺めも素晴らしいと思っていたけれど、これなら月がでて隠れるまで、ずっと見ていられると、主人も感心しました。
もうひとつの長椅子は、クマがいつか屋敷の主人を招待できればと思って、用意してあったものでした。
屋敷の主人とクマは、時々示し合わせて月を見る会をやることにし、アップルパイや魚のフライで、月を見ながら楽しく過ごす友達になりました。

2015年10月8日木曜日

タワーシアターの蜂蜜

むかしむかしあるところに、高い塔がありました。
その塔を背景にする様な形で劇場がひとつあって、昔ながらの仮面劇が毎晩上演されています。
その劇場の照明倉庫の屋根裏に蜂が巣を作っていました。
蜂たちはせっせと巣を作っても、あまり大きくして人に見つかると壊されてしまうので、ちょっと困っていました。
どうしたら巣をずっとこのままにしておけるのだろう。
羊は言いました。僕らは人間に伸びた毛をあげているよ。君達も、人のそばが良ければ、人になにかあげたらいいんじゃないかな。でなけりゃ山にでも行ったら?
なるほど、蜂は考えました。 ぼくらにあげられるのは、蜂蜜ぐらいかしら……。
蜂たちは相談して話をまとめ、塔の主人と劇場の支配人ところに真っ直ぐすっ飛んで談判に行きました。
羊たちが食べる草に、花の咲く草の種を混ぜてほしいということ。たくさん蜂蜜が取れれば、分け前をあげること。その代わり、巣を壊さないこと。
蜂たちはドキドキしていましたが、いざ話をしてみると、案外さっさと話しは折り合いがつきました。
時代は移り変わり、塔はビルに変わり、劇場は無くなってしまいましたが、蜂たちは今もせっせと蜜を集め続けています。かれらの蜂蜜はとても評判が良く、その辺りでも、五本の指に入るほどの名物になっています。
これが、有名な『タワーシアターの蜂蜜』のお話しです。いつか機会があったら、パンに付けて食べてみてはいかがでしょう。美味しいですよ。

2015年10月7日水曜日

ママの正体は宇宙人でスナイパー

むかしむかしあるところに、若い頃、宇宙をまたにかけるスナイパーをしていた、普通のママが居ました。
地球のみんなには秘密ですが、ママの正体は、実は宇宙人でなのす。ママの大きな目がなによりの証拠ですが、それは、もともとの姿が宇宙人だからです。
ママが人間の姿になったのは、ママがまだスナイパーだったころの冒険がきっかけでした。
とある宇宙の果てに、大きな塔がありました。この塔の頂上で何かをすれば、あらゆる願いが叶うというのが、宇宙人たちの間で噂になっていました。でも、この塔の入り口には鍵がかかっていて、ちょっとやそっとでは中に入ることもできないのです。
ママは、ものすごい冒険の末に、この塔に入る鍵を見つけていたので、塔の門番が驚きのあまりあんぐりと口を開けているのをよそに、さっさと塔の中に入ってしまいました。
塔をのぼっていくと、頂上にはとても不思議な部屋がありました。
その部屋は、真ん中に大きな泉がこんと湧いていて、噴水になって水を吹き出しています。
水には、どこから取ってこられたのでしょうか、たくさんのリンゴが浮かんでいました。
どこからか現れた影の様な謎の生き物が、ママに言います。
「そのリンゴを食べた数だけ、おまえの願いは叶う。叶うけれども、願いには願ってもいないこともついてまわる」
影はママにぐいっとサイコロを差し出します。
「願ってもいないことは、俺が代わりに食ってやることもできる。そのサイコロを振って、出た数だけのリンゴを食べて、同じ数の大事な思い出を俺に差し出せ。そうすれば、同じ数の願ってもいないことも食ってやろう」
でも、ママには話し合いの余地は全くありませんでした。
「リンゴは一個だけでいい。それを食べて人間の姿になって、死ぬまで人間として地球で暮らす。願いはそれだけだから、後の願ってもいないことも全部自分で引き受ける。おまえにやるものは何も無い」
影は黙ったままゆらめいていました。ママはリンゴを食べて人間になり、地球に来て結婚して子供を産んで、ママになったのでした。

それにしても、こんなお話、本に書いてあったとしても誰も信じないでしょうね。
※血パンダの女優、尾島さんが宇宙人がどうしても私の顔に見えてしょうがないというので、じゃぁ次回宇宙人の絵が出たら、尾島さん大冒険でと安請け合いしたところ、約束した次の日に宇宙人が出たので、めでたく尾島さん大冒険。スナイパーは彼女のハンドルネームからいただいております。


2015年10月6日火曜日

大王の墳墓

むかしむかしあるところに、一人の気のいい男が居ました。
ある日、男のところに宇宙人が訪ねてきて言います。
「これから我々は、幾つかの橋を正確な順番でまわり、古代の大王の墳墓に行かなければならない」
「どうして?」
「それは、今はわからなくていい。さぁ、出発しよう」
「橋を渡る順番はわかってるの?」
「それも、今はわからない。とにかく行ってみなければ、なんにもわからない」
わからないことだらけのままですが、男は宇宙人と一緒に出かけることにしました。
いくつもの川を渡り、幾度も古い王様のお墓を行き来しますが、なにもわからないし、なにも起こりません。
散々うろうろして、もうそこを通るのも何度目かになる、ある橋を渡ろうとしたとき、男が宇宙人を止めました。
「待って!よく見て!」
「7かな?数字の7に見えない?」
「それがどうしたんだ?」
「この橋は、7番目に渡る橋かも」
橋の欄干をよく見ると、確かに小さく「7」に見えなくもない数字が彫ってあります。
「なるほど」
それから二人は、方々の橋で数字を探し回りました。
いろいろ探したあげくに、男がため息をつきます。
「困ったぞ。数字はたくさん見つけたけど飛び飛びだし、数字の小さい順番通りだとしたら進み方がめちゃくちゃだ」
その通り。この辺りの橋はくまなく探しましたが、数字はきちんと順番になっていませんでしたし、数字の順番で橋を渡るとしたら、普通に道を歩いてはいけません。

二人は一旦男の家に帰って、いろいろ考えることにしました。
発見はありましたが、いろいろわからないことだらけのまま。冒険はまだまだ始まる様子がありません。

2015年10月5日月曜日

秋ですよ。秋。夏が終わるというのは素晴らしいですよ。なんせ歩いても汗かかないし、猫が膝にきても気にならない。

Netfilixはお試しでおさらば。どうにかスーパーナチュラルのシーズン8は見終えた。
キルラキルと、あとなんだっけ。いくつか途中のものはあるけれど、なんやかんやで、Linuxで見られず、Macでも、FirefoxからだとMicrosoftSilverlightのインストールを求められたりと、細かな意見の相違がどうにも埋められなかったもので、これなら音楽の方にお金を出すわということになりました。
そんなわけで、Huluにがんばっていただきたいものですが、なんだかんだでAppleMusicの居心地が良くてかなわんです。
ひょっとして、動画配信なんてものは俺にとって全く不要なのではないかと、そんな気もしてきてますよ。娯楽とというか、暮らしの潤いとしては音楽があればいいんじゃないか?
LastFMが戻ってくる兆しも無いわけで、もうこれは致し方ないかしらと思い始めております。朝っぱらから、一昨年なんとなくスルーしたヴァネッサ・パラディのアルバムに行き当たりまして、あら。スルーして申し訳ないと、そんな気分。
Linux使ってる間も、傍でアンプにつないだMacから音が出ていればいいわけで、いや、Linux版のiTunesお願いします。

改めて読む

先日気晴らしに漫画でも拾うかと思って行った中古本屋で、ゲド戦記の1巻から4巻と外伝を一冊100円で拾いまして、子供の頃になんとなく読んだ記憶があるんですが、どうもピンとこなくて印象が薄かったものの、読み直そうにも微妙に記憶にあるのであんまりその気になれないまま、多くの月日が流れておりました。
そんなこんなでル・グイン自体が「いつかね〜」な扱いだったわけですが、この度めでたく読み始めまして、概ね面白く読んでおります。しかし案の定、記憶が微妙に邪魔ですね。なにがピンとこなかったかといえば、当時の自分にとってはグダグダと説教臭かったんだと思い出しました。そのせいで、ル・グイン自体も敬遠してたんですね。もう大人なんで、大丈夫です。
あんまり再読しない方なんですが、P・K・ディックとか、もう一回読んでおく方がいいのかという気分になっております。
先日からペルシダーシリーズ読みたいんですが、きちんと読んでいない空想冒険小説なんかを漁るか、なんとなくそんな気分ではあります。
こっち方面、面白いけど読んだ?読んでなかったらこの辺から手をつけてみなよとかあれば、お誘いください。
そういえば子供らに読み聞かせているホビットの冒険が、ついにゴクリとのなぞなぞのシーンを迎え、久しぶりに山場に差し掛かって食いつき過ぎて力つきて寝てしまうという現象を目撃。そういう読書体験がしたいものです。

許可証

むかしむかしあるところに、何についての許可証なのか誰も知らない一枚の許可証がありました。
その許可証は大昔から沢山の人の手を渡って、今に伝わっています。
かつては、アイザック・ニュートンが木から落ちるリンゴを見て、万有引力についてひらめいた時に彼の手元にあり、マジシャンのフーディーニが肌身離さず持っていたとも言われています。
マーケット・ガーデン作戦で生き残った英国軍兵士の所持品だったり、高名な日本人の冒険家が、ついに戻らなかった旅の最初の野営地から友人に贈ったという逸話もあります。
人々はこの許可証を注意深く観察し、話し合いました。杖のシンボルのようなものが見て取れるので、もともとは何か医術に関わるものではないかと推測する人も居ますが、全くはっきりしたことはわかりません。

許可証そのものを、磁気をはじめ、ありとあらゆるもので分析してみても、なにがなんだかわからないことだらけ。結局のところ、何について許可している許可証なのかも、未だに謎のままです。

2015年10月4日日曜日

橋の向こうの宇宙人

むかしむかしあるところに、小川があって、誰も渡らない橋が一本かかっていました。
その橋の向こうには、噴水のある小さな公園と小さな家がありましたが、橋を渡って公園に行く人は誰も居ません。
みんなが公園に行かなくなったのは、小さな家に宇宙人が住んでいるからでした。
この宇宙人と会うと、人はなぜか自分の心に持っている炎を見てしまいます。それだけなら構わないと思うでしょうが、炎に照らされてできてしまう自分の影からの声を感じ、影の姿を見ることになるのです。
どんな人も影は必ずできてしまいます。普段は全くそんなことを考えない、気にもならないという人でも、影を通じて、自分でも思ってもみなかった自分を見てしまうのです。不思議なことに、影は黒い影のままですが、自分のことだからでしょうか。どんどんいろいろなことが伝わってくるのでした。
そんなわけで、誰も宇宙人には会いたくありません。

町の人たちは、宇宙人に町から出て行ってもらいたくて、飛行機のチケットまで用意しているのですが、宇宙人に会って、その話しをする勇気のある人は、誰一人居ませんでした。

2015年10月3日土曜日

思えばこういうイージーなネタでエントリー起こせるとか、便利なことこの上ないじゃないか。

むかしむかしあるところに、小さなテントで羊と暮らしている一人の少年が居た。
ある三日月の夜、少年はこんな夢を見た。
この世の何処かにある塔のてっぺんに、世界のあらゆる方位を支配する天秤とサイコロが置かれていて、誰かが、おもりを置いて天秤の均衡を変えたり、新たに賽の目を変えたら、世界の様子がまるで変わってしまうのだ。
少年は目を覚まして、テントから出て夜明けの空を見る。
少年は考えた。テントの外に広がり、果てがないと思っていた草原の彼方に、ひょっとしたら本当にそんな塔が建っていて、世界を変えてしまう誰かが足を踏み入れるかもしれないと。
羊たちを追いながら、少年は幾日か、その塔のこと、天秤やサイコロのことを考え続けた。



2015年10月2日金曜日

村の祭りと連休があったと思ったらもう10月ですが、なんだかこのところ無目的にStory Cubesを転がしております。

連休初日が村祭りでして、朝の8時から翌朝の6時まで獅子舞ですよ。出たり入ったりではありますが、獅子舞にひっついて歩いておりました。
もうね、人手不足が深刻で、来年から練習に加わって獅子頭まわさないかという話しが出る始末、私、地元を長く離れていたので、一部のふりしか覚えていないどころかひたすら怪しいんですが、さてまぁ、これは来年の話しですな。
連休はもう、食い物と酒を持ってきなはれ、こちら火を絶やさず待っておりますという方式で、だらだらBBQをしてすごしておりまして、筋肉痛と胃もたれの日々でした。

Rory's Story Cubes

アマゾンで見かけて、ちょいと興味が沸いたのでポチったんですが、これがなんとも面白いのです。
サイコロに、数字の代わりに絵が描いてありまして、そういうのが九つあります。そいつを振って、出た絵を元にお話しを作るってのが基本的な遊び。
いろいろ勝手に考えて遊びなはれというのも推奨されております。



で、これで「むかしむかし……」という語りだしでお話しをしなはれということなんですが、子供らと遊んでみたところ、非常に食いつきがいいというか、バカウケでした。
とりあえずお話しを「むかしむかし……」から始めろということになると、刷り込みは怖いもので、さらっと「○○が居ました」と続き、話しはすんなり転がり出します。
ただ、なんだかんだで「旅に出る」「お供の何かと一緒になにかする」というパターンに陥ってしまいがちなんですが、これはなんというか、難しく考えたら負けというか、行きあたりばったりで苦笑いが一番かしらと見ています。
ワンパターンになって、どうしても面白くなくなってきたら「旅に出る」のは禁止っすね。
大量にくだらないお話しを粗製濫造していて、なんかの拍子に、思わぬいいオチがつくと、思わず「おー」と声が出ます。子供とやっていて、本人も思わぬいいオチが付いて拍手してしまうこともありました。
何種類か追加セットも発売されている模様。暫くは楽しく遊べそうです。

2015年9月11日金曜日

Minecraftサーバを模索するのも一段落ということで、一応書いておくのでした。

TEDxHimiの作業をしようぜというときに、wk2tさんが長男にマインクラフトをやらせたのがそもそもの始まり。なんだかんだでサーバを立てることになったわけですが、とりあえずなんとなくレシピができたので、構築の手順だけアップしておきます。
わからない呪文があっても、たいしたことしてないので、キーワードを拾って落ち着いてググれば大丈夫。
「スクリプトを書き」とあっても、コマンド書いて、.shというファイル名にして保存し、実行権限付けているものばかりです。パーリナーイ☆
  1. CentOSをミニマムでインストール。とりあえず、rootしか設定しない。
  2. ネットワークを設定しなおす。DHCP→STATIC
  3. SSHとMinecraft用のポートを解放。
  4. Javaをインストール
  5. /etc/fstabを編集して、homeディレクトリをRAMディスク上に作る様設定。とりあえず1G確保。
  6. minecraftユーザーを作成。そのまま、home下にできたディレクトリにMinecraftサーバを展開。wget面倒だったので、別のPCに落としたものをscpしました。
  7. Minecraftサーバ自体は、メモリを2G利用することにして、スタート用のシェルスクリプトを書く。
  8. /varディレクトリに、minecraftディレクトリを作成。rsyncで/home/minecraft下をコピーするシェルスクリプトを書き、cronで毎日午前3時に自動実行。
  9. システムを落とす際にも、バックアップのスクリプトが動く様に設定。
  10. システム起動時には/var/minecraft下の内容を/home/minecraft下にrsyncでコピーする様、スクリプトを書き、設定。
  11. Minecraft自体が簡単にぐずって落ちない様に、server.propertiesのmax-tick-timeの値を-1に変更。
  12. なんかもう、ダメ押しで、rootさんがnice -20でMinecraftサーバを起動することにした。もうちょっと性能の良いPCがどこかから転がってくるまで、多分このまま。
こんな感じで、Pen4の3.0Ghz、メモリ4Gのマシンだと、ゾンビトラップでゾンビ200体を生成し、生成中の稼働率をtopで見ていてもCPUは106%、メモリも46%程度を利用するのみ。
二人ログインの状態で200体を一気に殺してもCPU稼働率は一瞬150%を超えるだけで、あとはおちつく。さすがに、CPUの稼働率が100%を超えていると、穴掘りは多少ラグる。
むしろ面倒なのは、2~3人で全力で未知の領域に走ったり、同時に穴を掘りまくったりではないかと見ているが、やたら負荷をかけるプレイさえしなければ、この環境で普通にプレイできる。
とはいえ、なんだかんだでCPUのパワーが凄く大切だよと、最初に聞いていたことが改めて浮き彫りになっただけの、なんだか普通の展開でした。
このマザボも10年選手なので、そうこうしている間に先日いただいてきたDellのC521に差し替えて64bitパワーはいかがなものかも試したいところ。多分、ラグはマシになるものと期待しています。

今後はといえば、今はこのサーバがルーター下にあるのだけれど、メモリが8G以上乗るPCがあれば、システムごとRAMディスクに放り込みつつ、ルーターとMincraftを稼働させて運用ってところまでが、今見えている遠足であります。もっと遠くはあるのかしら。

2015年9月10日木曜日

この日記よりも、セーフプロジェクトのブレイクの方が本望なんだと、かなり真面目に思案しています。

なんとなく中学英語のCDのリピートを継続しています。効果は実感してないです。これに加えて、先日からやんごとなき理由で崩し字の学習を始めております。ようやく、「は」「ば」「もの」は概ね判読できる様になってきました。先が長すぎて、ぐらっときますね。
とはいえ、ただの日本語の平仮名だというのに読めないというのは問題じゃないかと考えるところのものであります。
ところでこの間、飽きるまで引きこもろうと決めまして、とりあえず引きこもっています。
家で仕事してるんで、引きこもりもなにもないやろって話しではあるんですが、そう定義してFacebookとかも連携しているサービスからの投稿とかはやってるんですが、特段見ていなかった、Facebook自体になにか投稿するってことは停止しております。
そもそもやっぱり、Twitterの方が居心地いいっすよね。
こういうことすると、すわ情報の絞り込みかライフハックか引き寄せかということ勘ぐる人も居るかと思いますが、アホかという話しでして、引きこもりは引きこもり。ただの引きこもりであります。仕事して勉強して遊んでたら出かける時間なんてねぇんだよ。1日40時間くれよ責任者出てこーい。

そういえば、先日から日本サービスが始まって、絶賛お試し中のNetflix。ChromeOSで見られるのに、Linuxではさらっと視聴できず、ささっと見るもん見たら継続せずにお別れかしらと考えております。
とはいえ、結構な多言語対応していることを発見しまして、音声英語、字幕英語で……。早口わかんねぇよ!もっとゆっくり喋れよ!
これは腰据えてかかる必要がありますな。
つまりそんな時間は無いので、Netflix。Linuxで見られる様になるか、『Six Feet Under』全シーズン多言語状態で追加してくれたら、英語とフランス語で繰り返し見る。見ますが、10月の頭までにそんな状態になるとも思えないなぁ。
さよならを前提のお付き合いとか、ドキドキしますね。

そういえばマイクラサーバ

なんだかんだで、古PCをいただいてセッティングしたMinecraftのサーバですが、常時立ち上げておくなら勝手知ったるRPM系だろうとCentOS7を突っ込んだところ、なんだか色々と様子が変わっており、ついでに新しいことを学習する羽目になりました。ヤラレタ。
どうも時々のエラーの出方がおかしいということで探ってみると、手持ちメモリの不良も発覚しまして、嗚呼、中古パーツしか使わないと決めるとこんな苦労が……。と、じっと手を見ることにもなったりしていますが、それもロマンの一部であります。
ともあれ、Minecraftを動かすディレクトリはつつがなくRAMディスクに突っ込みましたし、ついでに実行の優先度をあげて動かしてみると、案外どうにかなるもんで、現在、そこそこ快適に動いています。大いに感謝するものであります。
笑えるのが、別のサーバ上で動かしていたワールドを動かすと、chunkが読めない!とかいうエラーがそれなりに頻繁に出たんですが、しょうがないなぁと新しいワールドを作ってみると、大人しくなっているという謎の現金っぷり。読めないってエラーは出てるけれど、なんも表示されてないってこともないわけで、気にするもんでもないんでしょうが、なにはともあれ、ログに出るエラーが少ないのは気分が良いものであります。
こうなってみると、システム全体をRAMディスクに突っ込んで運用したいところ。
メモリ8Gとか16G載るんだぜという古PCを持て余していたら、頂戴したいであります。最終的にはシステム全体をRAMディスクに放り込んでルーター兼マイクラサーバというところまで持って行こうかしらと、野望が膨らみます。
などと言いつつ、がんばったところで、最後にものを言うのはマシンスペック。悪いロマンですな。

2015年9月1日火曜日

なにおまえみたいなチンカスが靖国の話し?とか、そんな感じで恐縮です。それはそうと、どっかにMincraftのサーバにできそうなPC余ってないですか?

黙々と考えているとろくなこともないもんで、やっぱり出力していくことは必要という9月のはじめ。
皆さん、いかがお過ごしでしょうか。

チューニングはじめました

マインクラフトのサーバをチューニングしようと黙々と項目出してますが、そもそも10年前のマザポのマシンでCPUがPentium3です。誰か中古の適当なPC捨てられずに持ってたらください。
アイディアとしては、LinuxでRAMディスクに放り込んで動かせば、いい感じなんじゃないの?というところ。
もうしょうがないので、家のルーター兼Mincraftサーバとして運用すりゃいいんすよね。最終的にはそんな感じに収まる方向で目論んでます。
5人ぐらいで遊べりゃいいて話しなので、メモリ8G積んでシステムごとRAMディスクに放り込んで、ハードディスクは完全にバックアップ。Core i3ぐらいのCPUがガンガン回ってりゃなんとかなるんじゃないかなぁ……。
とか、中古のマザボやらなにやらも眺めながら、手元にある古PCの解体廃棄も進めております。
マシンにお金がかけられないからチューニング。ずっと昔、先輩に聞いたニュージランドのゼロヨンの現場のようですが、まぁ、なんとかなるのかしら。

大阪への行き来といろいろ考えたこと

8月も終わろうというタイミングで、大阪の布忍神社に行ってきまして、宮司から招集かかって実際に集まるまでに数カ月というのも、いかがなものかと思いつつ、子連れ強行軍してきました。
サービスエリアでやってる妖怪ウォッチのスタンプラリーをやりつつ、ひたすら進むわけです。帰りも同じくそんな調子でした。
Ingressも同様なんすけど、途中のハックも忘れてなかったんですが、こちら、本当は150ぐらい欲しかったユニークは、ろくに稼げずじまい。なんともはや。

そもそもなんで招集かかったのかという用事は、とうにうやむやになっておったのですが、なにはともあれ、とてつもなく久しぶりの布忍神社でありました。

本当は酒飲みながらのんびり他の話ししたかったんですが、こんなご時世なんでそうもいかず、結局は日本人がそもそも何を畏れ敬っていたのかなんて話しになったわけですよ。
なんつうか、あれっすよ。靖国神社って、なんでその機能を各地の神社に完全に任せないんですかね。もしくは、ゆるい上位互換ぐらいにとどまっておけばいいのにと考えた次第。そもそも組織がどうのこうのとか、そういう手続きっぽいのは置いといて、いかがなもんでしょう。

靖国神社のサイトの「靖国神社について」http://www.yasukuni.or.jp/history/detail.html)のページによれば、明治天皇の命により、明治維新界隈で亡くなった人を祀るための神社を作ったという話し。なんでそこからガンガン膨れたものだろう。
最後のパラグラフ『靖国神社と日本人』のこれですよ。
我が国には今も、死者の御霊を神として祀り崇敬の対象とする文化・伝統が残されています。日本人は昔から、死者の御霊はこの国土に永遠に留まり、子孫を見守ってくれると信じてきました。今も日本の家庭で祖先の御霊が「家庭の守り神」として大切にされているのは、こうした伝統的な考えが神道の信仰とともに日本人に受け継がれているからです。そして同様に、日本人は家庭という共同体に限らず、地域社会や国家という共同体にとって大切な働きをした死者の御霊を、地域社会や国家の守り神(神霊)と考え大切にしてきました。靖国神社や全国にある護国神社は、そうした日本固有の文化実例の一つということができるでしょう。
なんでこう、そもそもは普通のレベルの話しな筈なのに、わざわざ靖国神社にまとめてややこしくするのかって話しですよ。と、こんな風に表現すると簡単にしすぎですかね。
明治天皇が必然的にやらなあかんかった崇敬と、それ以降のことって今ひとつ違う感じがあるんやけど、そこら辺いかがなもんなんだろ。
そこで祀るってことで何がしたいのかって話しというか、明治天皇が明治維新を経て、そこに神社を置いた理由は確実にあるわけで、本来期待される機能に対しての純粋さって保たれてるんだろうか。
最近の英霊ってのは、放っておいたら菅公みたいに雷落とす可能性ってあるんすかね。維新の皆さんは、ひょっとしたらあるかも。や、これは現実の現象としてというより、何かをそう見做す畏敬の形としてって話しなんですけど。
そういうことも含めて、断面としての明治維新、廃仏毀釈、それ以降の戦争と敗戦と、そういったことの前後について考えていきつつ、靖国ってどうよ。先祖ってなんだよというのを考える必要はある筈。

で、明治維新以降ってのを見渡したら、やっぱり天下国家じゃなくないかと、そんなもん、昔から無かったというか、西洋から輸入して無理やり運用しているだけのもんじゃないのかと、そんな疑いすらチラホラ感じる昨今ですよ。
やっぱり、個人やらご家庭レベルでの普通の崇敬とか、氏神様とか、みんなの足元はどうなのってところから、あ、ようやくこの辺で、いつもの左右揃ってもうちょっと真面目にやらないのなんなの?って話しにつながりそうですね。

2015年8月24日月曜日

濃いやら薄いやらわからん週末でしたが、なんですかね。なかなかきちんとは噛み合わないものです。

TEDxHimiで集まれる人間だけでなんとなく飲もうぜとか言いながら、相当楽しく飲んで飲み過ぎてしまい、土曜日をぐったりマインクラフトやらなにやらで潰し、更に日曜日まで似たような感じになってしまったわけですが、ワールドのどこを探しても牛がおらず、ひたすらどこかに恐らく居るであろう牛を目指すか、読書か読み聞かせをしているかという日々でした。
まだ困ったことがあってもググったりしていないので、いろいろ抜けていることはあるとして、草刈ったら出てくる種が麦になることを発見したのが一昨日。
牛に必要なのは麦や!というアドバイスで、麦を持ってふらふらしたら、牛があとからついてきたのが今日。牧場はじめました。牛が付いてくる様子を見ながら進もうと後ろ歩きをしていたら、背後でクリーパーが爆発して瀕死の重傷を負いはしたものの、なんとか死なずにやっております。
偶然ハサミを発見し、そういえば、棒をいくら組み合わせても柵にならないのでイライラしておりましたが、そういえば、スケール無茶苦茶やったなと思い直してみれば、さらりと柵になるなど、ググらずとも、なんとかやっていける感はありますな。

思索は続きますが、ちょっと書けないような酷いことも多く、また、前進していくことは前進していくこととして甚だしく、それなりにいい感じです。
そういえば、前年度末、つまり三月で終わるはず(あ、これ不味いか。略)

申し訳ないが俺には必要なかった

ところで、今、古本で入手したとある本の冒頭部分を読んでいるんだけれど、これを読み進めたものかどうしたものか迷っている。
アメリカ人の詩人が書いた生き方の再構築本で、結構長い間ベストセラーになったとか。困った。
この話題、これまでのフロイト先生とオカルトとシッダールタ、あとちょっとシェイクスピアが十分カバーしてくれているじゃないか。なんだよ。
なんで、生き方の本がベストセラーになるんすかね。今ぱっと自分の本棚を見渡しても、ちょっと見当たらないというか、悪くないのかもしれないけれど薄いものを手にとって困惑しております。

なにをしたものか……

と、ここでまた、ブロックでできた例の世界に行くといろいろ問題なので、なんか別の本を読むか、なんか書くか。さて、どうしたものかというところ。
そういえば、いろいろ考えあぐねて止まっていたセーフプロジェクトを再開しようと思うのです。

ネット上の何かという意味で、他のものとさしたる差異無しといえど、世界がセーフならいいなぁということでひとつ。

2015年8月21日金曜日

日々精進と発見となにやら。部屋とワイシャツとなんとか、いえ、違いました。

流木を生ける 花屋のフジッキーと氷見の浜辺でTEDxHimiのトークイベント開催時のディスプレイについて考察した。
流木で何かしたいというフジッキーの発想があって、そこからのスタート。
前日に海岸が清掃されて、まさかの不発かと思いきや、流木が一箇所に集積されており、かえって恐縮。
生花視点での流木の良し悪し。何を見るか、どう活けるのかという話し。
 流木の白くなり死んだ木肌の良し悪し。丸くなってしまったものよりは、折れてギザギザになったところのあるものが使いやすいということ。
なんとなく、流木で皿を作るという別ミッションのことも考えながら、夕方の氷見の海岸をふらふらして、実際に浜辺に流木を生けてみた。
フジッキーも、花屋になる前は結構な舞台役者で、日本の演劇の突端付近にいた男。流木も、立てたら空間になって、人がそこに立つというイメージは十分にできたうえに、さらにその流木が生けられたか、生けられていないかという視点が入るので、とても楽しい思いをした。
人間、公園だろうか道の真ん中だろうが、それなりのスペースにそこそこの高さのものを立ててしまうと、案外そこに非日常的ななにかを見出して満足してしまいがちになるものだが、この、生けられたかどうか、いかに生けるかというクオリティの求め方があると、一気に広がりが増していくと同時に、ただ立てるなら、どんな流木が良さそうかということもわかってくる。今回海岸で得られた、我々が思い描く舞台のディスプレイに適した流木についての考察は以下。

  • 木肌は、より白い方がいい 
  • 長さは3メートル以上あった方がいい
  • 枝の折れ感が鋭い方がいい

しかし、この条件があったからといって、決して何かが狭くなったわけではない。
ただ、こんな流木を求めて、海が荒れた次の日の海岸に行くしかなくなってしまったことも確かだし、ここからさらに、これが覆る何かを発見したり、新たな境地にたどり着くことができるかもしれない。
やっぱり場そのものや場数ってのは大事だし、専門家の目やら、考察を次につなげていくことというのは大切ですな。
何かの時点ので区切りは作るにしても、それもひとつの通過点に過ぎないわけで、幾つもの仮定や考察について、取捨選択の時間を短縮し、精度や品質を高めていくには、こうやっていくしかない。
わかるわからないも、やったかやらないかだけで決まると言って過言ではないっすね。

2015年8月19日水曜日

地底世界ですら家を拡張するノリで進んで行くとか、冒険じゃないですよね。

家で静かにお盆に突入し、家の界隈から出ずにお盆を終えまして、なにがどうってわけでもないんですが、みんなはでかい画面でCM無しで『火垂るの墓』見たことあるかな?一生に一回は見ておくといいよ。
サクマドロップにお願いしたいのは、そろそろ絵柄を戻していただけると、缶で買えるなぁという感じなんですが、本当ね。戦争だけは勘弁っす。

ところで先日、TEDxHimiの作業中に高岡の無双啓蒙家wk2tさんがうちの長男をMinecraft遊ばせたんですが、ああ、TEDxHimiなんやかんやでクロスファンクションな感じの面子になってきてます。さて、これがまぁ、5歳児の凄まじく真剣な顔というのを初めて見たんですよ。で、面白いとは聞いてたけれどと、ついついDEMO版で遊んでみたんですが、詰まるところ私、Minecraftのアカウントをゲットしてしまいまして、今後どうやって節度を持ってこの仮想世界と付き合うかということで、苦慮しております。箱庭あかん。

プレイ二日目ぐらいに、ざっとチュートリアルは読んだんですが、あとは実は富山Ingressのクロスのハングアウトでなんとなくプレイ済みの皆さんから聞いた情報だけを手掛かりに、ひたすらノーヒントでうろうろしております。
どんなアイテムがあるのやら、とにかくおっかなびっくりで試しておりまして、ボートが作れた時には目を疑いましたね。
なんせまぁ、海の向こうに島が見えてるんですよ。それなりに近い感じなんですが、泳いで行ける気もしなくてですね……。
なんとかして長大な橋を作ろうと画策しておりましたが、作れるんですね、ボート。一も二もなく向こうに見える島へ!と、海に漕ぎだしましたよ。やばいです。着いた先で夜になられても困るんで、もうとにかく家建てましたよ。小島の景観なんざ一瞬で破壊しましたよ。命大事。
とまぁ、なんでしょうか。安全のために、あらゆるものを犠牲にして便利さを求める営みと、資源を求めてひたすら版図を拡張しておるわけです。あさましいですな。人間というのはあさましい。
もうね、多分なんというか、いろんなところに自分の性格のダメなところが投影されてる気がするんですよ。今後プレイは1日40分だけとか、そういうことにしておこうと強く心に誓うものであります。

2015年8月13日木曜日

なんだか数日こねまわしていたんですけど、持っていてもふくらんでいくだけなので、日記だよということを思い出して、ちょっと整理して放出。いつにも増してわけわからないし、まとまり無く長いので注意。血パンダとTEDxHimiは人員を求めています。

年明けてTEDxHimiの準備を本格化し、先日血パンダの公演を終え、ずっと頭の片隅で考えていたことがある。
先日、これに追い打ちをかける形で、某所でインタビューの内容から、いつから田舎はダメってことになったのか、どうやって脱出したらいいのかと、自分の中で大問題化している。
これ、前提として、土地に縛られてポータビリティを無くしてどうするって話しもセットなんで、そこを忘れない様に。
目についてどうしようもなかったものが、解決しないまま自分の中でどんどん増幅していって、本当にイライラしているわけですね。
以下、壮大な愚痴ってことで、ワロスワロスでもいいんだけど、いかがなもんだろうか。

個人的には、今どきは田舎でも特に問題ないわけで、個人的には映画を見るのが大変なだけだ。ロードショウを逃したらその瞬間に映画館で見るやりくりすらできない。これはしかしまぁ、我慢できる。
問題は人の頭数だ。
皆さん概ね「田舎でやってもしょうがない」「田舎だからいいじゃないか」とか、「こんななんにも無い田舎で……」という定番のやつに蝕まれている。
でなければあとは、周囲の雰囲気を見ての判断の結果ご一緒できないとか、俺ごときが、私ごときがというのが始まって、何かしようと言っても、そうそう順調には人が集まらない。
さてひとつなにかをしよう、そのための徒党を組もうとなった時に、必要な教養のある人間が簡単に集まることは非常に重要で、田舎では実際これがとても致命的だ。
じゃぁ、教養ってなにさって話しになるけれど、これは、なんかやるぞ。となった時に、そこに意義を感じた各々が、細かく言葉なんて通じなくてもいいから、ちゃんと正直に、我田引水をせずにみんなでどんな行動ができるか。そしてそれを実行していくうちに、何処かの時点でどのぐらい豊かな共通の語彙、認識を持つに至るか。
ここまでのプロセスに耐えられるかどうかが教養の有無のひとつの指標だと考えている。
一人で黙々と何かするんなら問題ないのかもしれないけれど、一人なら極端な話し、人類最後の一人になったとしても同じことだ。あ、流石に誇張しすぎ。

幸い、情報ならインターネットですぐに入ってくるし、今どきは一般的に中学は卒業できているので、大概の日本語は理解できる筈だ。
子どもたちが等しく妖怪ウォッチにはまる様に、大人だってなんだかんだで、いろいろな情報に触れられる筈なんだけれど、結局はどうだろう。実際、多少苦労するものには辿り着いても無かったことになるし、乗っかれる他人のふんどしならいいけど、自力で何かとなると、全くピクリとも動かない。
これは、多様化したからだと思っていたけれど、そもそもそういうもんでもない。手に届く範囲からどのくらい広げられるかってだけで、人間はそもそも一日二四時間、処理能力をフル稼働して生きていないので、知らないであたりまえだってことですよ。
見たり知ったりした瞬間に体が動くのか。そういう情熱を、なんであれしっかり培う雰囲気が田舎には無いんじゃないのか。これはなんでだろう。
仕事の休み。車。パチンコ。ショッピングセンター。禁煙。酒の量。これに、村の揉め事や祭りの話題が加わるだけでも幸せなんですけど、同じ話題がループするんですよ進もうよ。深めようよということなんですが、なかなか無いのです。
とはいえ、最近の世の中には自己肯定やら生き方のTipsやら学びの場があふれているんじゃないのかと見えるんだけれども、結局みんなで何処を見て時間だけ潰して身動きする時間を無くしているのか教えて欲しい。
何かを他所から持ってくるのはいい。どんな風にして自分の居る場所で形にするのか。完コピが上手くいくわけもないし、ただの真似だとそもそも薄っぺらくて根付くわけもないんだから、とりあえずできる範囲でいいから、ちゃんと根付くことしようよと思うわけだ。君のまわりに、君がなんか言ったりやったりしたことを区切りにしている人はいるか?そんな仲間を集めて、誰かのふんどしにそのまま乗っかるんじゃなくて、自分たちのものにローカライズして磨けているだろうか。
ナンバーワンのクオリティがお嫌だからって、オンリーワンを目指したら、それこそ圧倒的なクオリティが無いと、ものの数にも入れてもらえないことの恐怖に気づいておられるだろうか。残れないなら時間つぶしと同じで、それでもいいということは、極端な話し、人類最後の一人に以下略。

こういうのね、さて考えてみようぜとか言ったら、改めてTEDのバカ踊り動画とかで解説されても、頭にくるだけなんすよ。実際のところリーダーシップとかそういうもんでもない。
その辺の、普通に誰でもする分析はもうどうでもいいから、分析だけして踊らないことに価値があるなら、その真の価値についても厳しく問いたいものであります。
俺はそんなこんなで、血パンダ結成までは富山県内で誰一人、改めて演劇やろうってい言ってもあんまり相手にしてもらえなかった。そうこうしているうちに戯曲読んで集まってもらえたものの、いろいろ考えても、通算6年がかりぐらい。非常にありがたいことだが、やっぱり、あらぬ時間のかかりかたをしていると思うわけですよ。
さっきのリーダーシップってことでいえば、俺は血パンダの団長なんですけど、戯曲書いて演出するだけだから、役者が居ないとなんもできないわけです。大道具も制作も自分でやるとか、どんだけやねんって話しですよ。役者のみんなに言わせれば、「俺達書けないもん」って話しになるし、ほとんど場面転換も音も無いお芝居ですけど、血パンダの舞台にピッタリの地あかりを設計して調光してくれる照明さんが居たら、もっと凄まじい舞台になるんですよ。必要なのは、ナンバー2なのかと問われれば、答えは否です。
ある程度の規模にならない限り、マネジメント云々ってのは、できない、やらない奴らの戯言で、始めようやってみようって規模なら、頭働いて体動くやつが集まって何をするかきちんと考えれば、事足りるし、そういう中で長期展望っぽい種をきちんとまいていくことも、視野に入れられればいいんじゃないのかと、そんな次第。で、何処にいて、どうやって集まるのが普通なんだよ。

そうだ。血パンダは劇団員募集してます。TEDxHimiもまだまだ人員不足であります。
血パンダは演劇。TEDxHimiは例のトークイベントを実行する集団だけど、本当は、TEDの精神に従って、いろいろ活動したいところなんだぜ。
というか、ここまで書いててよくよく考えたら、ideas worth spreadingって、いいこと考えたから聞いてくれ!やってみようぜ!ってなんだか普通のことじゃないか。

2015年8月9日日曜日

田舎モンを食い物にするのは、なにもカタカナの職業の皆さんだけじゃなくて、今まさに食い物になってるみんなが体動かしもしないでネットで言い争ってるんじゃないのかと、そんな風に考えた。

村の壮年会の飲みから戻ってきて、やっぱり確信したというか、村落の共同体で政治の話になるのは概ね総会の時だけ。しかもなんやかんやで村としては自民党一択で、村で推す雰囲気の議員になる人がダメならそれはそれでどうなんやと文句を言ってちゃんとしてくれよとかいうやつ。
なんでかといえば、他の政党の政治家には、なんの実績もないから。そもそも、民主党が政権取ってた時に、界隈の民主党の政治家は、改めて政権取ったし、話しきかせろよと顔を出すなんてことも無くて、そんなこんなでいろいろ立ち遅れたという話し。それしか聞かない。
諸々で垣間見た地元民主党のていたらくを鑑みれば、そういう有り様が、政権を持つ持たないに関わらず平常運転ということで問題なさそうだ。

つまりは、なんやかんやで政治やってる皆さんで地盤というか、住み分けをしておこうという程度でしかないということだとしたら、それは非常にだらしないことの様にも思えるんだが、そういうのもさておいて、ちょっとした推論。

今の戦争法案騒動で右側の床屋政談の連中が妙だなぁと思うのが、そもそも選挙で選ばれた自民党なんだからデモすらすんなとかいうやつ。
こういうことを言う連中って、地域のコミュニティでも数少ない政治っぽい話しには、そもそも関心払ってないんじゃないだろうか。

普段のロビー活動というか、こういう政治家にお願いする、役所にお願いするってレベルで、具体的に困ってるんだよ。という話しを真剣にしたことが無い可能性をそこに見て取れるぐらいに、選挙の瞬間に対するこだわりを感じるわけですよ。そこで時間が止まっているという誰かの意見を鵜呑みにしてるだけ。なんでかというと、経験が足りないから。
いえね。用水路が埋まったり、溜池の水が漏れてたりするんですよ。溜池が決壊したらどれだけの被害になるか、いかにもマズいって話しなんですけど、これギャースカ言わないと、なかなかどうして、役所も決して当事者じゃないんで、お願いだよ怖いよと訴えるみんなよりは、のん気に落ち着いてるのが普通ですよ。
つまり、普段から声出すケースって、諸々あるわけです。デモという手段じゃなくても。で、そこから考えれば、今回の法案なんて、話題が天下国家だけに、とりあえずデモってのは一番穏当で民主的なんじゃないの?選挙権なんて、俺達の主権のひとつの構成要素じゃないの?
ある程度都会の人はしょうがねぇかもだ。問題は、田舎モンのネトウヨだよ。しかも、子供が居そうな年齢の皆さんだ。ちゃんと地域社会で、当事者として生きてる?
いいよ。村や町内じゃなくても、他にも単位はある。職場でも各種団体でも。なんでもあるんだよ。やっぱり、普通にやってたら自分たちの生活に政治やら行政絡むよ。選挙だけが断面なんてことは、そうそう無いんじゃないかな。

でまぁ、その上でやっぱり地元でいくと、サヨクは後継者も育てられなければ、長い時間かけて労働組合もいろいろボロボロなわけで、そもそもなにやってんだって話しなんですけどね。
それこそ、青年団やら婦人会やら老人会やらででも政治の話しになるのかならないのか。そういうところでまで政治の話しになり始めたら、それでも長いものに巻かれたい感じの雰囲気になるのかどうか。それが問題なんだけど、なんだかんだで左はしょうもない情緒に訴えかけてくるし、結局は左右どっちも田舎モン食い物にしてるんじゃないのかってことで共通だろうと、そんな話しになるわけです。

そんなわけで、自分のところの田舎では、自民党が他よりマシな存在になっている。さて、明日はどっちだよ。と思うものの、何かあって認識を新たにするまでは、そろそろこの話題はどうでもいいや。
平和大事。長いものに巻かれたいだけの人たちに巻き込まれるのはヤダ。
考えるのは終了。次いこう。

2015年8月7日金曜日

いい加減、共感程度でよしとする態度を捨てて、もうちょっとみんなで頭使ってそれを持ち寄らないか。

進んでいるのやら、停滞しているのやらわからない数日。
結局、先日のお叱りへの返答に対して反応はいただけず、ただ流れで「サヨク」呼ばわりされたことだけを、自分のギャグレベルの現在の到達点として、重く受け止めておくことにしなければならないのか、それとももうちょっと刺激した方がいいのか思案中。
そういえば、ブリスマスのフェイク・ドキュメンタリーを本気でなんとかしたい。氷見のPRにも使えると思うんだがなぁ……。ほら、『おそいひと』は10年以上色あせてないじゃないすか。それを実績としてカウントして欲しいなぁ(下衆顔)。いや、冗談でなく。今ならお安く済ませられます。多分。

某テレビ局にて相談と雑談。
ここ暫くのブログの種明かし。なるほど、それで政治家育てなきゃってブログに書いてたのかって、まぁ、極めて熱いわけだけれども、本来はあまりこの世の役に立ちたいという意識があるわけでもなく、全部戯曲とかそっちに出してしまうわけで、その辺はもうどうしようもないわけです。
あ、ホームページも普通に作ります。
SEO屋とかWeb広告屋の動きが激しいので、同じくらいの予算を管理費名目でいただいてコンテンツ整備します。ってのが最近のトレンドです。ブログ書きの稽古も淡々と行っておりまので、ご用命あればどうぞ。

イーラボにて、たまたま居合わせた、うえるさんに質問。
セラピーをやる人間として、セラピーを必要とする人にありがちなパターンと、それを俯瞰してプロセスを見なければならない立場から、何が見えているのかという話し。
通常は、自分の現在位置を確認しつつ、本当にこれでいいのだろうかという圧力やら不安やらと闘いながら、更に自分を磨いていくわけで、それが本質的に救われる唯一の手段だが、研鑽の努力を他者への共感で代替して、そこで同じことをする仲間なんかを見つけてしまうと、永遠にそこから抜け出せなくなる。
共感程度の強度でまとまる集団というのは、基本的に互いへの依存も弱くて済むので、困難を伴わず、結果として何一つ生産的なことができない可能性を持つ。
なんつうか、これ、普通に朝活とか早起会やセミナージャンキーの皆さんやビジネス本読書家、宗教未満のスピに見られがちな傾向か。
しがみつくのはいいけど、変な姿勢だったり、拠り所が弱いと思わぬコケかたしますよってことなんだけど、なにをもって転んだとするかってのも、そこまでいくと大小あって個々人のケースに入り込んでいくんだけど、こう書いてカチンとくる様な皆さんは、そもそもこの文字列まで辿り着くことはないと予測はしているんだけど、敢えて描くなら、あなたが普段、結構気軽に使っていると推測される、共感って言葉について、これはそもそもなんだろうと、ちょっと真面目に考えてみていただきたいものです。

ってなわけで、なんだか着々と新作に必要な要素が集まってきております。
え、戯曲なの?政治活動とかそういうのじゃなくって?って、そりゃそうでしょ。何を今更。

2015年8月5日水曜日

もう一回、今はすっかり廃れてしまった氷見の奇祭「ブリスマス」について考えてみよう。

よくよく考えてみれば、マルクス兄弟の本を持っていたら、共産主義者呼ばわりされたなんて、悪い冗談だと思ってたんですが、どうやらそれが冗談じゃなくなりそうなご時世って理解でいいんだと、そう悟りました。
ってことで、一国一文化主義者がのしてきて、かしこくもとうとくて目が潰れるかとも思える様な、輝かしい日本のルーツをフィクションにして遊ぶな!とか言われる前に、書けそうなことだけつらつらと書いておこうと思う。

阿努の庄へのユダヤの移入

氷見界隈は古来、阿努の庄と呼ばれていた。
アヌといえばバビロニア界隈の神であり、アヌンナキの父である。古代の氷見界隈にメソポタミアからの入植があったことは、想像に難くない。
ただし、メソポタミアからの勢力は、徐々にユダヤの勢力に入れ替わっていく。
現在の氷見市中村は、阿努の庄の中心として、中村という地名になっていたわけだが、阿努の庄が春日大社の支配下に入った折に、祭神は春日さんに刷新されている。春日大社はその筋ではユダヤとのつながりが指摘されている。

ユダヤという点では、氷見には磯辺という地名もあり、磯辺神社が鎮座している。イソはイセの訛りで、こちらもユダヤ。そして石動山だが、セキドウサンと読む分にはなんてことないがこれは、イスルギと読む。ここには、イスルギヒコという神様が居たということだが、イスとくればやはり、ユダヤとの関係を見ておくのが定石と言える。
また、氷見の市街地では、京都の八坂神社を勧進し、京都同様に祇園祭りも行われているため、ここまででユダヤ系の文脈の移入は揺るぎないものとなっている。

氷見にほど近い宝達志水町にはモーゼの墓もあり、富山県の呉羽山では、世界の聖人が修行したとも言われている。

ぶっちゃけ、イスルギヒコ=天狗=イエスキリスト

あれ、ここまで書いたら後は、前にTumblrに書いた氷見のブリスマスについての引用で事足りますね。

氷見市民の男子は、16歳の冬に専用の定置網に船を横付けして、海中から直接ブリを抱き取って船に戻るという通過儀礼を行う。
昭和40年代頃までは浜から沖で撒き餌をしている船に泳いで向かい、船の付近に居るブリを捕獲していた。
網からブリを取るのは、どうしてもブリを捕獲できなかった場合に限られており、「アミ」と呼ばれ揶揄の対象となった。
山間部の村でも特定の網元に依頼して海で通過儀礼を行うのが一般的で、特別な事情があって村の溜め池で鯉で実行したものの、結局は次の年に改めて海でやり直したという江戸後期、明治期の記録が幾つか残っている。

後ろの方のパラグラフのみ引用。
結構廃れ気味というか、もうほぼやってないんですけど、富山県氷見市の男子の通過儀礼「鰤澄す・ブリスマス」なんかは、たぐっていくとマジでキリスト教起源というか、十字架になる前のキリスト教のシンボルって、魚のマークだったわけで、一緒なもんが使われてるんですけど、でもあんまり誰もその辺に突っ込まないまま下火ですよ。
ただポーンとそこにあって、クリスマスの時期にやるのに、誰も意味なんか考えないですよ。
氷見市界隈、獅子舞の時は「エイヤサー」って「弥栄」なんですけど、ブリスマスのときは飛び込む若者を鼓舞したりなんだりの掛け声「ヤーハエーハエー」ですよ。「弥栄〜栄え〜栄え〜」からの変化なんだろうなと漠然と受け止めてましたけど、ストレートに「ヤハウェ」ですよね。アイタタごめんなさいもいいところでした。

どうすかこれ。氷見市の皆さんは前向きに、この古代から続く通過儀礼、『ブリスマス』を復活させたらいいと思うよ。

2015年8月4日火曜日

いかん。左右ともにいけてないよなぁと思ってたのをそのままポロリして、思わぬ場所でやらかしてしまった……。

ここまでの禿の今日は……

地元の歩き方教室の先生がFacebookで、このブログを支持していた。
http://ameblo.jp/hsybga/entry-12057519701.html
歩き姿フェチで、先生の活動をチラチラ見ている身としても、先生自身は断固支持するものの、ブログの彼女のエントリーにはSEALDsの例の梅田演説と同じくらい違和感を感じるので、その旨書いた。
ん〜。シールズの女の子とたいしてかわらないレベルで、自分の言葉を喋っていない印象ですね。ネトウヨのスタートラインから改めて世界を眺めています!的な。シールズは、サヨクの伝統芸能的な作文で失礼します!ですが。
と、これに、先生のFacebookともだちの方から、自国に誇りを持つことが何故「ネトウヨ」となるのか?
とお叱りを受けたので、長くなるものあれだしと、諸々端折って所見を述べたものだ。以下。
出雲の勢力圏のもの知らずの若者に、地元の国譲り神話も教えず、いきなり大和王権からスタートってのは、たいへん結構な情報操作に見えますね。背後には一国一文化の次世代の党が居られる様なので無理もないんですが、何十年も歴史勉強してきた凄い喫茶店のマスターの凄さも疑わしくなります。地元愛が見えない愛国心とか、信用に値しないなぁ。
いやぁ、確かに端折り過ぎてますよね。これに対して、
答えになっていない、ネトウヨの定義をせよ。と更にお叱りを受けたので、とりあえず、

あ、返事書いてる最中にブサヨ呼ばわりのテンプレートが入ったのでので、同じマルクス主義者でも、俺はグルーチョ・マルクス主義者だと答えたら、「マルクス主義は既に崩壊してますので、そんな主義の方との議論には応じるつもり全くありません」とか言われた。
ちょっと悪ふざけが過ぎたな……。これは申し訳ない。
グルーチョ・マルクスの名言がネット上にまとめられていたので、貼っておこう……。
さて、先生のエントリーのコメント欄をこれ以上騒がせるのも忍びないので、場所をここに移す。
というか、先生に見つかって喧嘩なら他所でやれと言われてしまった。申し訳ないっす。
つか、いいのかこれ。右左インテリどの方向からも嫌われそうだぞ……。しゃあないか……。

お叱りへの返答

ところで、逐語的な解答を希望しておられたとは、意外でした。最初の書き込みからはみ出さない様に書いてみましょう。

自国に誇りを持つなら、彼女の場合は、教えてもらったことを更に深める目的で、自分たちの地元の歴史を勉強してみても良かったのではないかと考えます。
彼女の地元は、日本の王権確立のひとつのヤマ場になった土地の筈。いろいろ面白いのではないかと考えます。
愛国心の源足りうるのはまず自らのコミュニティの文化、歴史や土地への素朴な愛着であると考えます。まずは体験し、把握している範囲に対しての愛着や敬意から体験的に自然発生して然るべきで、彼女の様に自虐史観への憤慨の様なものや、国民の象徴である皇室の歴史に対する敬服を誰かに吹きこまれてというのは、実際には非常に足腰の弱いものになります。体験、経験ではなく、ただの思想ですね。
愛国心というのは、そもそも普通なら成長とともに育まれるものであり、たとえ国を憎み、捨てる様なことになっても、その人を苛むものだという理解です。

思想は揺らぐ可能性があります。なんだかんだで転向もできる。そんなものが愛国心では、その時々に簡単に形を変えて記号化して誰かに利用されてしまうのではないでしょうか。
利用ってのは具体的には、同じ様に感化された人を寄せ集めて、敵を作りあげてみせ、「憎い!」と言わせること。自分自身が「愛国者」であると公言させること。公言した人を仲間に賞賛させること。
国を愛しているという記号の下に集まる人間の一定の人たちを把握できれば、彼らを使っての論調形成は、普通よりも容易になります。

「愛国心を持たせない様にしている日本のマスコミや教育学会」と十把一絡げにしておられますが、そもそも愛すべき国というのは何で、マスコミや教育者は何を伝えていないんでしょうか。
彼らをひとくくりにして、「間違っている」と見なしたきっかけってのは、インターネット由来の情報や一定の書籍群ですか?
幸いなことに、日本ではまだ、ある程度は自力で判断できる状態にあり、海外の視点でどの様に見られているか、様々な情報にアクセスして、いろいろ判断できると状況だと見ていますが、いかがなものでしょう。
あなたが、俺は既に結社している活動家だということなら、それなりにがんばっていただきたいのですが、

  • 俺の書き込みに答えてない。
  • 言葉の定義をしろ。
  • ネトウヨ呼ばわりするならサヨク。つまりはブサヨという決めつけ。
  • 日本が嫌いなら出て行け。

ってのは、やっぱりインターネットでよく見るテンプレートから、まるではみ出してないですよ。
私の文章はわかりにくいと、よく言われますが、他の人が書いた文章の読解力の方はどうにかありますので、テンプレートに準拠しない形で、ご自身の言葉と進め方で、ご自由にどうぞ。恐らくは、問題ありません。

2015年8月2日日曜日

お盆ぐらいまでに新作書けたら、また『夜は』の上演を延期してそっち上演するとか、そんな流れ。どうなる血パンダ。

連想の癖とでも言うか、何かを見ていてふと何かを空想してしまうパターンの個人差の話し。
山やら大きな建物の向こうから、大入道の様なものが顔を出すというのが俺の連想の癖で、これは子供の頃からずっと。
小学校に入って、水木しげるの妖怪の本で「見越し入道」を発見したときに「見越し入道見越した」というと消えるとあって、恐らくこれで対処可能なんだと、ある意味安心したものだ。
実際に大入道が現れるて、消える呪文の効果を体感してもおらず、その空想の癖は消えないわけだが、こういうのは本当に人それぞれの様で、とても面白い。
こう書くと、皆怖い方のことに思いを馳せてしまうが、楽しいものでも悲しいものでも構わない。
人間、多かれ少なかれ、こういうもののパターンでできているんだろうが、くだらないものは順繰りに手放していければいいものと思う。

とりあえずは、目に入るくだらないものに心動かされない様にというか、ダメだなぁと感じるものについて、あまり感情に引っ張られることなく、対処したいものだ。

公演直後の打ち上げに参加できなかったメンバーも交えて、血パンダ公演の打ち上げ飲み直し。
飲んだ後、移転した粋宏閣でしめたものの、あまりのごった返しぶりで、失敗。
確かに、だらだら酒飲みながら食う場所でもあったけれど、店が大きくなってもうわけがわからない混沌。店の容量分だけ拡大する場末。

2015年7月30日木曜日

斜め攻撃とか、そもそも角度の無い連中からしてみたら、それは誰ルール?って話しですよね。

ドキドキしながらとある役所へ。
諸々再確認しなければならないが、発見できないものがあっただけでなく、あらぬものも発見してしまい、余計にドキドキする。
いや、これは俺が発見した気になっているだけ。要確認。
確認、そしてまた確認。さながら未来世紀。

田舎で暮らす。土地に心奪われることの問題

久しぶりに用事があって、県立大の某研究室に立ち寄る。
田舎の皆さんが、土地に心奪われ自分たちのモビリティの極端な低さを人質に取られているという話し。確かにその通り。俺も自分の家の山をなんとかせねばならんと、土地に心が縛られている。
田舎で暮らす以上、人が少ない分、端から端まできちんとやらねばならない。政治家を育てることすら田舎で生きていくための責任で、これを何処かで放棄したら如実にアホな目に会う。
アホな目というのにもいろいろあるが、そんなことを喋っていた夜にもTwitterが騒がしくなっているのを目撃する。

http://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/1507/29/news072.html

CCCモバイルは、スマホを通した地方創生を推進する子会社「ふるさとスマホ」を設立した。代表取締役社長には、前佐賀県武雄市長の樋渡啓祐氏が就任。カルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)の企画力と、CCCグループが持つ「TONE(トーン)」や「Tポイント」の連携を軸に、地方創生につなげる事業展開を目指す。

私企業に市の図書館を売り払った元市長が、あからさまにその私企業の走狗となり、それを支持することがまかり通るとか、なかなか重篤な状況。
「なんなん、わしらこういうところから入門で沢山なが……。」とか言う感じで騙されて、慣れたら即隘路で絶望したり、いきなり外されるまでもなく、そもそも、ハシゴ自体が幻だったとかいうことが無い様に祈る。無いよりマシというのも良し悪し。
私財も公共財もグダグダにするディストピアの推進者と思えばロマンチックなのかといえば、ご本人の発言を世の中のウォッチャーも美味しく利用する様になっている「ひまじんうんこ」。
勉強怠ったり、喉元過ぎて熱さを忘れたのか、そもそも熱いと感じる感性が無いので、身を守るには何らかの手立てを講じなければならないのか。誰もが主語になり得る大きな問題だが、切りがない。

血パンダ役者募集してるよ

ところで、『Ostinato』が特殊過ぎたせいで、先日の稽古時の読み合わせで『夜は』の歯ごたえが微妙なことになった。立ち稽古に入れば模索に切りはないのだけれど、2チームできるくらいの役者の人数が居たら毎度稽古が面白くなるだろうし、2日で6ステぐらいできないかしらと思ってみたりしている。
役者やってみませんか?

2015年7月29日水曜日

インターネット床屋政談を全部記録して解析とか、そういう遊びを誰かしないかな。しないか。見たいなぁ……。

右寄りなアニキと話しをしていて、内容的には概ねこんな方向にいった。
  • シーレーンどうするつもりで考えてんだろね。
  • ASEANときちんと仲良くするってことなのかな。
  • 改めて、原油どうするのかな。
かつての八紘一宇の運用失敗の轍を踏まない八紘一宇をやったとして、それでも結局大回りで原油持ってこざるを得ない状況もあろうもの。
地理的な状況というのは、動き様がないわけで、そこも改めて状況整備したとして、最初にやるべきが軍備というか、そんな部分の単純化なんだろうかと思うと、どうも理解できない。
一体どの段階の、誰の尻拭いで今我々こんなことになっているんだろう。

で、デモに参加したら就職できないとか、あいつは朝鮮人だとか中国人だとかいう、そのレベルから仕込みなの?とか、しかも調査するのか!マッチポンプちゃうんけ!
みたいな有り様になっていて、ガス抜き初切相撲なんじゃないの?という気もしているわけですよ。
方々で、中国人があそこ買ったここ買ったって話しあるじゃないですか。そんなんもこんなんも含めて、なんか簡単な話しじゃないので、もっときちんと正面からやらんとあかんすよね。
なんやかんやで、立憲君主国の国民だってことを厳粛に受け止めて、明日はどっちなのかということについて、もっと大人らしく冷静に考えられないものだろうか。
でなきゃ、志位ちゃんが本気になって、イモータン・カズオ化するとかしてもらわないと、こっちとら根がロマンチストなんで、もうあとは是が非でも軍靴の音を幻聴しまくって亡命しかない。

2015年7月28日火曜日

菓子食う用の楊枝を作ったわけですけど、今年はわらび餅食いまくれってことか……。

午前中、金沢の山の中へ。

『里山の夏 涼を遊ぶ』
https://www.facebook.com/events/1021364201209487/

いい場所でした。街ばかりクローズアップされる金沢というか、石川県ってこういう景色を結構無造作に放り出してあって、身悶えしますね。本当にいい場所でした。や、どこの地方も一緒か?
トモル工房の田中孝明さんの新作やらなにやら。風がどっちに向くのか、個人的には孝明さんがやるとしたらどうなる?という興味本意で、見たい感じの風の様子があるんやけど、これはいつか俺の運がよければ拝めるかも。
実は、ここで同時に展示されていたガラスで、生まれて初めてガラスの作品も、ちょっと良いんじゃね?と思いました。工芸品には使い道って重要っすな。

書き起こすと比較的おだやかな一日の様に見えて、実は出力不全。
ゆっくり出力する時間が欲しいけれど、今週はそうもいかず。

2015年7月27日月曜日

やっぱり、集まれって呼びかける次のアクションが必要ですよ。次は行動。

ふと思い出した2011年の夏の読書感想文っすな。もう45にもなるんで一貫してるとは言わんすね。性根なんで、いまさら変わらんのです。

http://nakazolog.blogspot.jp/2011/08/blog-post_24.html
何百冊のハウツー本を読んでいると自己紹介する人に、「で、何に準拠しているの?」と聞いて即答できるか、本当に聞いてみたい。ただ消費する行為で何処かに流れ着くことはあっても、明確に自分を変える力なんて無いでしょ。これだって、所詮は自分の中にもともとあったものが明確になっただけですよ。そう思えば、余計に自分が何に準拠しているのか、さらにどう変わるのかってのは、非常に重要なことですが、ここまでわかりやすいと、この本だって、哲学でもなんでもないハウツーです。昔の偉い人を並べて、どうだ!読め!書け!革命だ!とか、脅迫しているわけです。
なにはともあれ、読め。で、書けよ。おまえらも。どんな状態がやばいかはこの本に書いてあるし、この後も佐々木先生が優しく教えてくれてるかもしれないから、とりあえずいいんじゃね?と、そんな次第。

読んだらからには準拠できるか?準拠できてるかどうか怖くなるくらい読んだか?準拠してるか?マジで準拠してんのか?
学んだこと、知ったことを使えるってのはつまり、自分のものにするということで、自分のものにするってことは、準拠できてるかどうかってことだよ。同化ね。同化。いや、そもそも同化なんてできないから。

で、その上でなお、「考え」「言葉にし」「実行する」わけだけれど、できてるのか。全部、自分のことになってるかしら。
と、なんすかね、娯楽の多様化って、つまりガス抜き装置の多様化なんですね。
ここんとこ、そんなことばっかり考えてるんで、そろそろこれがネタになりそうな勢いです。

どうも疲れているというか、金曜の晩に酒飲んだのが足にきての土曜。そのまま日曜日の日光に負けた感じで疲れて……。この日光で疲れた感じって、土方のバイトの三日目ぐらいまでの体の感覚なんですけど、どうもよろしくないですね。
なんか、外での活動を考えます。

2015年7月26日日曜日

そういえば、スピリチュアル素敵〜って皆さんが、なんで幽霊や占いに答え合わせを求めるのかということが最近すごく気になっています。

必要なのは答え合わせじゃなくて、謎解きで、法則に準拠できているかどうかだと思うんだけど、どうも世の中違う感じがするのよね。別にいいか。

インターネットで政治の話し

インターネットで政治的な発言をすると、政治的なスタンスを勘ぐられるんですが、私、左右しっかりと全力を尽くして欲しいだけで、中途半端に左右に別れた皆さんの中にはどちらにも「戦争になって家族が死ぬ」とか言ってる連中がいまして、とりあえずなんだろう。言っているだけではなんにもならないのに、相手をバーカバーカ言っている様では、インターネットが貧乏人のためのガス抜き機械でしかないってのがそのまんまになるわけで、非常によろしくないと思うものであります。
あと、よくわからない人に仮託するとか、マジでやめた方がいいっすね。自分の意見が絶対とかいう感覚が見え隠れするのも、大人としてどうかしらと思いながら見ています。そういう芸ならいいんだけどね。

TEDxHimiのアクティビティ

TEDxHimiにて、魚釣りから食うまでのプロセスを体験しようというイベントを実行。
このプロセス自体を俯瞰しつつ体験することに意味があるんだが、食ということで、食品衛生について考えなければならないということで、実は頭落として内臓を出す下処理ができなかった。
釣りドルみっちぃに来ていただいたりもして、そこそこ賑々しく進行した。30年ぶりぐらいに手が魚釣りの後の匂いになるが、これはこれで、悪くない。また何かの折に釣りに行こうと思う。

さて、当たり前のことだが、「考える」「言葉にする」「実行する」というプロセスをとにかく進めて、諸々をブラッシュアップしていく必要がある。しっかりした思想、文化の共有が伴うのであれば、EAチェーンでもかまわない。ただひたすら「実験(Experiment)」と「適用(Adapt)」を遂行していくというやつだ。
そもそも考えられなければなんにもならないが、言葉にして計画を共有する段が弱くてもなんにもならない、実行しなければ、考えも深まらず、考えが深まらなければ言葉も同様に浅いままだ。
難しいことは難しいままに理解し、実行に落とし込んでいけなければ、あらゆることがすべてどこか劣化していくか、ただの概念になってしまう。

単純化された象徴的なキーワードだけで出来ることなんてのは限られていて、そういうものに引っ張られて刺激の強い短絡回路を作ってしまっては、簡単な教条主義に陥ることになる。
そこに慣れてしまえば複雑で面倒なことに向かうことができなくなる可能性もある。
「なにごとも単純であるべし」という言葉を、果たして何に適用しどの様に使っていくか。その吟味を忘れてはならない。

2015年7月24日金曜日

妥当というか、田舎ってことで莫迦にされてる気もしなくもないアウトレットじゃないですか。自転車で来る高校生とか最強。

Facebookでちょっと遊ぶが、小津さんからTwitterでやれよと指摘される。
すいません。Twitterだと流石に面倒臭いっす。堕落しきっています。

小矢部方面に出るついでに、最近できたアウトレットモールに寄る。
氷見から小矢部に抜けるための最後の面倒な場所に、ややこしいものを作りやがる。
とはいえ、何かの折にまた行くやもしれず、まがりなりにもGODIVAがあるだけで、とりあえず満足。
雨の夕方ってことで人は少なかっただろうが、酔いやすい建物。これは俺のせい。
しかし、この程度の満足感で渋滞やむなしとはならん。小矢部に行くときに、もう少し手前で道の駅側に逃してもらえんものだろうか。

諸々終了後、最終的にはヤマシナ印刷にて飲酒。
目標設定というやつを、そもそも他人にしてもらわなければモチベーションすら自分でなんとかできない段階で、そもそも向いてないんじゃないかという話し。
それでなくても、できないものは絶望的にできなかったり、できない理由がわかってもうまくいかなかったりするもの。
梃子やらギアのイメージで噛み合う噛み合わないみたいな風に考えるのはもうやめよう。これもただの言い方だった。

2015年7月23日木曜日

A5のルーズリーフ使ってみることにします。無地の紙しか使えない体です。

血パンダのミーティング。次回公演は、11月28日、29日でやる方向。
『夜は』というのがありまして、実はこれ、結成の時に書いたんですが、ずっとやってないんですよ。
いかがなもんでしょう。キャストもスタッフも募集します。

専門学校の頃の同級生が大門にカレー店GALOをオープン。
元々、この場所にタージマハールが出店した時に店長をしていたものだが、金沢界隈を回って、四半世紀を経て同じ場所でタージマハールからの独立。
おお、なんだこりゃ。感慨深い。というか、歳取ったなぁ。
今はタージマハールのスタイルだけど、徐々に独自色を出していくとのこと。期待。

Amazonにて、とある書籍を入手。
日本のいわゆるスピリチュアルとか言っている人たちが拠り所にしているものって、一体なんなんだろうか。
幽霊に答え合わせを求め、世界の法則から遠ざかる的な本末転倒というか、結局は占いめいたものや似非道徳につながってなにがおさまるものか、と、ここまで書いたら、本当はあまり気になっていない自分に気づく。脳でなく、手が考えるシリーズ。

2015年7月22日水曜日

なんというか言葉だ。言葉ですよ。もっとこうなんですかね、すぱーっといきたい。

書くことがないというのは嘘で、日常とは、こうではいけないなぁと確認する数日。
もしくは日本語か、言語そのものの不自由さについて考える。
ここで、こうではいけないと書いているこの一文に、同時に日常とはかくあるべしという意味も、俺を知らない人間も読み取れる様に、そんな書き方はできないものだろうか。

長い間、手書きのメモやらなにやらを叩き込む場所としてクロッキー帳を愛用しているけれど、そろそろノートのデジタル管理とか、アーカイブ化について前向きに考えていく時期な気がする。確実に摩滅しているものはあるから、蓄積に頼ろう。

昨夜寝る前に、ずっと気になっていたものについて、特にこれまでと同じ方法で気にすることはないと知っただけでも御の字。個人的な数日分の進展としては十分かもしれない。

久しぶりに道草Ingress。客先からまっすぐ帰宅せず。行った先に温泉があって、そのまま入浴。いいものですね。また行きます。しかしまぁ、啓蒙派の皆さんには、とてもオススメできない。

例の法案以降、ソーシャルネットワークでは長いものが大好きな人がぽろぽろと散見されていて、いちいち手を止めて考えてしまう対象になってしまうので、ちょいと迷惑。
長いものが大好きな人が人を小バカにできるチャンスを得て、SNSで実際小バカにしてはしゃいでいるのを見るのは、なんとも不愉快なものですね。
いや、単に俺がそういうのが好きな方ってだけか。面白いんだよ。面白いんです。でも、小粒なので結局は消費されて飽きられる娯楽みたいなもんなんですよ。でも人間よ。そう思うと嫌なもんなんですよ。
あ、何を長いと感じるかは、その人の属しているコロニーに準ずるんで、そこは間違えない様にお願いします。

例えば昨日見かけた人

Facebookのアイコンという通常の自分自身ですら誰かに仮託しなければならない様な人間。だからこそなのか、人を小バカにすることで自らの莫迦を晒す迂闊な行為は、大人としていかがなものだろう。
具体的に彼の莫迦を何処に見たかといえば、自身のエントリーでもない、他人のコメント欄で、人に強く当てるにはあまりに浅いロジックで攻撃を行っているところ。
他人の尻馬に乗って、稚拙な猫騙しを出すなんて、それを切り抜けられて論破されたら、そこで使っている仮の人格が傷物になって困らないのかしら。仮託して身を守れると思ったら大間違いで、結局自身ではないので傷の修復は不能だと思うんだが、いかがなものだろう。
せっかく自分の身代わりをしてくれているペルソナ。雑なオモチャの扱い方していたら楽しく長く遊べないと思うんだが、どこまで迂闊な人なんだろうと、なんとなく公開されているエントリーを眺めて、自身を仮託できるものを多く持った浅くて広い幸福な人かと推察。
失敗したり、何か彼の心にとって重要な事件があれば、アイコン変わるんだろうなぁ。こういったことの同一性というのは、他者がどうかというのは無意味なんで、自身にしっかり同一性を保つ気があるかどうかが重要だと考えています。一貫させようという挙動さえ見えれば、なんでもいいんですよ。
彼が実生活を営むコロニーで、彼のああいった存在はどの様な形で受容されているのだろうか。
実名で公開の場で殴りあっている様な人なら普通に楽しく観察できるんだけれど、いかんせんSNSで友人の向こう側に居る程度の人だ。Facebookも折角なんだから、こういうのを隔離して観察する機能が欲しい。

ストとか暴動とかしない今の雰囲気というのは戦後徐々に作られてきていたわけで、そんな意味ではみんなグルですよね。
日本では、民主化運動のノウハウを誰も知らなかった。いつもならここで、中島敦の『名人伝』を出すのがテンプレートなんですけど、流石にゲロが出そう。なんの名人だよ。

2015年7月19日日曜日

三連休の低速モードで失礼します。

概ねWordpressのテンプレートを眺めていた。
なんでデザインとロジックもっと分離せんの?とか、ブツブツいいながら時間が過ぎていく、かなり薄い日々。
MTはperlでもうなにがなにやら面倒なことこのうえねぇし、Wordpressなんて昔から展開した瞬間に臓物ぶしゃーって感じで、ちょっと大きなサイト作ったら速攻重くなるしで、ずっとNucleusの方が好きでした。好きなんですよ。流行らないですね。
Nucleusってのがあって、そっち使いたいんすけどとか言うと「え、MTじゃない理由とか聞かれたら面倒じゃん。とりあえずメジャーどころ使おうよ」とか言われまくって10年ぐらい経つんじゃねぇの?なかなか難しいものですね。

長男の誕生日に伴い戦車はリモコン化。その流れで2台になった。電子工作に入り込む一歩前だが、その前にシャーシ製作の精度をもう少し向上させる必要がある。
せがまれていた妖怪ウォッチの方は、近々全バージョンのメダルが利用可能な新製品が出るとかでグダグダ。そもそもアニメーションも面白くないというか、子供っぽいダメなツボを攻めるばかりの単調さは変わらず、そろそろ飽きられて廃れてもいい頃なんじゃないかしらと思いながら見ている。

初めて脚本を書く高校生のプロットを見る。
さすがに何処で逃げを打ったかが手に取るようにわかるしダサい。見て取れた問題点は、プロットの供給元に確認して答え合わせもできたが、いくら初めてだからって、そこまで見たままというのはいかがなものだろう。
登場人物を先に設定するにしても、予め言い訳要員と見て取れる人間が居たり、起承転結やら伏線やら、どこかで聞いたような形式を意識するあまり着想が死んでいく過程をプロットの段階で目の当たりにする。
まだセリフにもなっていないのに、なんで好き好んで着想を殺していくのか、わけがわからないんだが、でもおそらく、この高校生にとりあえず最初の欲望のままに書き切ってから整合性考えたら?という指導する人とか居ないだろうし、手がかりも無いんだろうなぁ。
具体的な最初の一歩に対して、一般論が役に立たない例。
あ、しかし、ダサいのは読んでいるものがダサいんだと思う。文化的な刺激不足。

2015年7月17日金曜日

ソーシャルネットワークもいい加減落ち着いてきたというか、身の回りの環境になってきてます。

いきなり戦争になるわけはないので、とりあえず余裕のあるうちに近隣の政治家や政治家志望者ときちんと話しあえる環境を作らないと、皆が娑婆に黙らせられる可能性が増大しているので、そっちを危惧しているわけだ。
一応、戦争はそれなりに大事業。余程の四次元展開でもない限り、今どき藪から棒に始まるわけはないと信じている。
どちらにせよ、大事業を為すには万障繰り合わせる必要があって、繰り合わせる際に黙らしたり黙らせられたりが後々の揉めるもと。
少なくとも、何か限定された見解にこだわるのが迷妄のはじまりなわけで、今ギャースカ見えてくるもののほとんどが、いい感じじゃない。

選挙権を得て25年になるけれど、そんな意味では聞くことはあっても、自分の意見を言う様な関わり方はしてこなかった。
ここまできてしまっては、どちら側ということではなく、与党も野党も両方を育てる必要があるんじゃないだろうか。難しいか。
今更、福島某やワークシェアリング某の顔を見ても、連中が何をしていようが流石だなぁとはこれっぽっちも思えない。いわんや一時期与党だった党のお歴々をやだ。だが、こういう事態について、そこまで政治に関わりたくないよという有権者であっても社会を構成する以上は、「やだ、今ちょっとマズくね?」と思わなければならない事態ではないかと感じる。
Facebookなんかを見ていても、ある世代から上の一部の皆さんの自由からの逃走ぶりには目を覆うものがある。
口走っている個人の問題ということにしてもいいが、かつて観測された逃走の傾向が連想されるんだから、今の娑婆には、何か足りないものがある。
でも、こういうのに結びつく具体的でミイラ取りがミイラにならない行動ってなんだろうね。なんかやりながら考えていくしかない。

そういえば、Facebookのタイムラインから、自分がどちらのスタンスかも明らかにせず、賛成系の投稿にも反対系の投稿にも「いいね!」している奴を整理。
触るなら、どういうスタンスかを述べる。触らないなら触らない。それが大人の態度表明というものではないのか。
自分の意見と違うからって整理はしないけれど、いちいち理解不能の意図を推し量る義理はないし、それが見えてちょっと考えてしまったんだから仕方ない。こんなことにはリソースを使いたくない。またいつかね。

一日家から出ず。
休憩時の読書は「太平記」か「自己牢獄を超えて」

2015年7月16日木曜日

日常はいいなぁ。田舎者がやるべきことについて改めて考えていきたい。

富山市内での夜の打ち合わせの予定が変わってしまったものの、呉羽駅前の野口屋へ。
血パンダ公演の時の差し入れにあった焼き菓子などの山分け。ありがたし。仕事中のおやつにします。などと言いつつ、どちらかといえば野口屋のどら焼きの購入が目当て。野口屋のどら焼きは、とてもしっかりしていて、コンビニに売っている様なふわふわのものでは満足できなくなる。
ふわふわが求められているという話しもあるかもしれないが、実はそれ自体、ただのコストダウンのための業界あげての仕掛けなのではというお噂。自分が求めている自分の欲望だと思っていること自体、ただ踊らされているだけなのかもしれない。
その後、吸い込まれる様に小杉のめん八へ。チャーシュー麺とライス。これでチャーシュー飯の呪いは、多分解けた。欲望ってなんだ。

専門学校の同級生から情報。これまた専門学校の同級生がカレー店を出した模様。行かねば。

英語学習開始

老人でも若者でもない無産階級のオッサンとして、国外逃亡の準備を始めるというのが、今最もロマンチックな選択だと見た。

5年後にオリンピックを控えて、このままなら国民一丸とならなければダメという雰囲気が蔓延するだろうか。少なくともテレビは煽る筈。
競技場の件はグダグダだが、これに視線をまとめて、まとまったものをそのまま、アスリート様の超人的な努力を讃え、応援しなければ日本国民ではないという方向に持っていくだけのことだ。
一度まとまる方向で定着すれば、あとは使い様。スポーツネタだし、子どもたちの洗脳も自然に可能だし、そのまま民主主義のままでも言いたいことを言えなくするのは比較的楽な作業だ。
問題は、煮殺される段取りになっているのは学校教育のレベルで訓化された若者なんで、長いものが好きな皆さんや、反対反対軍靴の音が聞こえるとだけ小声で念仏唱えている皆さんは比較的安全なこと。なかなか難しい。

流れを振り返るとナルホドとはなるものの、節目は勝手にやってくる。日本人は公の場で政治と宗教の話しをしないし、大学では学生の自治は壊滅しているし、子供を子供のまま社会に出す仕組みはとっくに完成していて、とりあえず釜だけはガンガンゆだっていく。
命が軽い物語には美しいものが多いが、命が軽い社会が美しいわけがないのは歴史を見れば明らかだけれど、学校ではそういう教え方しないし、よくよく思い出してみると、左教師ほど美しいものが好きな傾向があった様にも思う。これはまぁ人によって違うか。
戦争というのは常に、国家のことを我が事として考えている明敏な皆さんが、これしかないと選択していく結果そうなるわけで、今後、実際どうなるかはともかく、そろそろ第二次大戦後から次の何かの戦前になっていくのは避けられない状況の様に俺には見える。

さようなら日本。そうはならない様にしたいけれど、申し訳ないが、こちとらただの文句言いだし文句言うこと以外で当事者になる年齢でもない。
そんなわけで、言いたいことも言えない日本になるなら、居られなくなるぐらいの勢いとクオリティを目指すのが全うな取捨選択というものだと信じる。がんばろう。

とりあえず、英語の語彙チェックはした。自分の状況は概ね把握したので、粛々と勉強します。
なんだあいつ、危なくなったら逃げるのかよって話しですが、俺程度が爪弾きにされたり逃げなきゃいけなくなるまで社会が仕上がるなんてこと、普通なら無いと信じている。あくまでこれは、念の為というか、自分のモチベーションのため。

語彙チェックはここでやったよ。みんなもどうだい?
http://testyourvocab.com/

2015年7月15日水曜日

一晩寝かしてもあんまり変わらないので、そのまま。カルシウム足りないのかな。

とりあえず何手目かにはマズローを持ち出す人というか、自己啓発の効果でミイラかミイラ取りなのかが曖昧になった連中とのコミュニケーションの不可能性を思い出す日だった。
細かいことは割愛。
いや、ありがちなテンプレを見ると、つい茶化したくなるというか、そういうテンプレートをこちらも持っているわけで、普通に香ばしい一日。

なんだろう。単純なテンプレに則って決まり文句を口走って生きている大人というのは、自分がアホだと言われる可能性について目を瞑る能力に長けているというか、こちとら日々自らの無能を指摘されて、「おまえという奴は相変わらず精進が足りない」と言われないかと怯えて努力をしているんで、もうちょっとドキドキしながら生きてみないかとお誘いしたいものだ。このスリル、やめられないんだぜ。

田舎には何もないというテンプレ

朝っぱらから「富山県には目玉になる観光地がないからアウトレットモール云々」という文字列をFacebookで見かけ、それでは例えば立山室堂に日々押しかけているあれは地獄谷から転び出た亡者の影をカウントしているものかと度肝を抜かれたものだが、要は「田舎にはなにもない」というのの延長だろう。とはいえ、アホというか節穴の目で幻を見て暮らしている幸せ者には変わりない。
こういう幸せ者が「誰が政治家になっても何も変わらない」というクチとかぶっているのだろうと推測するのだが、なにせ、地元民から情報を求めて「富山行きたいけど、なんかある?」と問われても、かなり自信満々で「何もない。金沢へ行け」と答えるので、邪魔なことこの上ない。
帝都界隈に寄生しているネズミ帝国の近所にでも暮らせば、もっと幸せになれるんじゃないかと思うのだよ。くだらない不満を漏らすなら、幸福になる努力を本気でしていただきたい。

捕鯨

で、昼にはこれ。
http://www.sankei.com/entertainments/news/150712/ent1507120013-n1.html

国際的な非難が集まる日本の捕鯨やイルカ漁に関して、ニューヨーク在住の実力派映画監督、佐々木芽生さんが賛成派、反対派の意見を取り入れたバランスのとれたドキュメンタリー作品を発表しようと製作に取り組んでいる。過激団体シー・シェパードのポール・ワトソン容疑者がこの動きをキャッチし、フェイスブックの個人サイトに、彼女は「クジラ、イルカへの虐殺」を正当化しようとする「プロパガンダ映画監督だ」と中傷する声明を発表した。

そもそも、命を食べずに生きられる者だけが他人の食ってるものに文句言ったり石投げたらいいんじゃないだろうか。

クジラやらイルカとなるといつも見かけるのが、イルカに関して言えば「かわいい」「癒やされる」とか、「日本人はクジラ食べるほど飢えてないわけだし……」やら「クジラなんて美味くもないものを……」というやつだけれど、こちとらクジラが穫れればありがたくいただくこともある土地の生まれ。美味しいんだよ。普通に美味しいんだ。
漁師の皆さんには、クジラは入ればボーナス的なもの。イルカはいかに傷めつけてとにかく追い払い、漁獲を守らなければならない厄介な相手だ。
日本人が反捕鯨に同調する文脈で捕鯨に目を向けるのは何故か。
かわいいやら癒やされるという手合は、現物を見たらかわいそうで二、三日牛豚鶏魚も食えないだろうからどうでもいいけれど、「飢えてない」「不味い」という反応に納得し、その意見を我が物として自らも言い出す連中が居るのは一体どういうわけだろう。
本当にそんなことを実感してのことか、当人に聞きたくなるが、ひょっとしたらネットで作り上げられた攻撃用のテンプレートのコピペで本人なんてのは居ないのではないかとも思う。そんな意味では上等のテンプレートだ。

世の中は実感にあふれている。マトンってのはそんなに美味いものだろうか。羊には愛らしいイメージないだろうか。なんで食うんだ。
イノシシの脂の獣臭さ、ハズレを引いた時のあの取り返しのつかない不味さ。大丈夫か?
不浄な豚を美味いと言って食っている我々を、イスラム教徒はあからさまに軽蔑するだろうか。流石に牛食ったらヒンズー教徒に悪くないか。虫食う地方あるだろ。
なにが言いたいかといえば、いちいち他所様の食い物とか、そこにまつわる諸々を莫迦にするんじゃないってことですよ。
食うために囲って繁殖させて殺してるわけで、人間に置き換えてみろ。ナチスでもやってない残虐行為だぞ。牛豚は畜だからいいってもんでもないだろ。命ですよ。
弱った捕虜によかれっと思ってゴボウ食わせたら木の根食わされたとか言われて捕虜虐待で戦犯扱いされたとかいう有名な話もあるわけで、これ、実話かつくり話か確認はしていないけど、なんせ反捕鯨の連中ってのは結局欧米のキリスト(イヤマテ、以下自粛)

2015年7月14日火曜日

なんだろうかこのマッドマックスの再見引力……。本当にじわじわきている。

椅子やら鍵やらを返却して、公演関係は全て終了。
職人は頭だけでなく、手なり体なりを動かしていなければならないというお言葉をいただき、やっている間に年老いてくたばる年齢に足を踏みいれている取り返しのつかなさと向き合っている。
書きます。

『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を見てから一週間が経過した。
映画は何かの事情でもない限り、上映中に複数回映画館に行くということは無いのに、じわじわともう一度見たくなってきている。
どうしても構成を見てしまうし、大学でそういう訓練を勝手に受けてしまった自覚もあるため、本当に何度見ようがそれなりに時間でも経って居ない限り、再見で新たな発見というのを経験したことがない。それでも、もう一度見たい。なんでだ。
イムモータン・ジョーの一部かそうでないかということ。
ニュークスが堕落して得たもの。そして、イムモータン・ジョーのウォーボーイとしての転生という重要なアイデンティティを失って為したこと。

まずいな。もう一回行くのか俺。

TEDxHimi準備

夜、TEDxHimiキュレーションチームのSkypeミーティング。諸々ゆっくりと固まっていく。
ところで、経済がキーワードになると、富山県のご先輩がたはどうしても経済効率に固執せざるを得ないのか?
面白い考察が得られそうなお題な気もするが「ごもっともです、効率で良いのでスポンサーお願いします」というわけにもいかないので、TED実行への理解を求めて、結局は県外にも出なければならない予感がある。
文脈を行き来できないことの背景にはそれはそれで、重みもあろうもの。しかし、ちょっと悔しい話しではある。

2015年7月13日月曜日

血パンダの公演『Ostinato』も無事終了で、日記再開であります。

このところ、日記書くどころじゃなかったものの、血パンダの公演も乗り切って、とりあえず書かねばということで……。
こういうのは、そのまま埋もれさせておくのでもいいんだろうけれど、まあ、一興ってことで、今回の上演作品『Ostinato』の前口上に加筆修正してアップ。
初日、6月11日の朝書いたものです。

前口上加筆修正

昨夜、ポルトガル人の写真家、ジョゼ・ペドロ・コルテスが富山県に滞在して撮影した写真の写真集が完成するからデータを送るとか言ってきまして、とりあえずpdfで見てくれ、感想が欲しいよとのことで、いそいそとダウンロードしました。 
ジョゼと最初に会った時に『現代において、悲劇は関係性の中にしか存在できなくなっている』というハナシをポロッとしたときに「なんだよ、わかってんじゃん!」的なことになりまして、こんなことが赤ん坊とか野蛮人の様なカタコトでも通じるもの不思議な気分がしたのですが、そんなジョゼから送られてきた今回の写真集のタイトルが、 
 "One's own Arena" 

ときまして、くっそ誰の?なにするんや?と、富山で見たものの写真集に付けるタイトルとしては、あまりに象徴的なんじゃないのかと思いながらデータを開きますと、写真に入り込んだ人物の視線、それを撮影するジョゼの視点にすっかりやられてしまいました。 
ジョゼの他の写真集もなかなかいい感じで、その場面に至る移動や行き当たった感触がとても刺激的なものでしたが、これはまさに、富山県で実際にジョゼがいきあったものが写っているうえに、その時間感覚が概ね推察できるわけで、これがまた非常に感慨深く、俺は一体何の夢を見させられているのかと、息を殺して見てしまいました。
なるほど、作品製作に対して共通する視点や思想ってものがあると、こんな意味ではあんまり言葉要らないものだなと感じております。 
だからって、俺が撮影する写真がジョゼと似通うかといえばそれは違うし、ジョゼも日本語で戯曲は書かないわけで、そこもまたこうやって出力することの面白いところ。ジョゼも待っているだろうから、全力で感想を返します。 
しかしまぁ、感想自体は大量に書けるけれど、英語にできないや。なかなか細部までは伝えようが無いですが、頑張って箇条書きで感じたことを伝えようかと、大量の言葉が心を渦巻いております。 
ほらほら、英語できないと損でしょ?とかいうのは、こういうタイミングなんでしょうが、これに関してはそうも思わないです。なんでかってのはまた、別の機会に。 
ああ、これも現代の悲劇が発生していく地点ですね。


仕込みの間、近所だってんで、めん八高岡店を連食してしまいましたが、どうもチャーシューに取り憑かれてしまった様です。大盛りチャーシュー飯とか食べたいっす。

二年ぶりの血パンダの公演だったわけですが、考えていることを行動に移して、どうやってクオリティを上げていくか、磨いていくかってのはやっぱり楽しいことだと、いまさら再確認したものであります。
ずっと稽古はしていたわけですが、お客さんに見せないと何かをクリアしたことにならんもんですね、やっぱり。
何をしたら何処がゴールだったり区切りになるのか、入力と出力の適切な関係とは何か、最近は学習ごっこばっかりで、手段が目的化している人たちも多く見られるので、その辺自分でも気をつけながら速度も精度もあげていきたいものです。

あ、ジョゼがpdf見ろってんで、書きそびれた日記があった(w。
書きかけのまま、ここに引用しておきます。

劇場になる空き店舗に搬入などをしたり現場で稽古してみたりで、まぁ、なにがなんだかわからなくなっております。何食か食った飯のうちの2食はチキンラーメンだったわけですが、なんというか、非常時にはこういう飯がいいものですね。
うちでとれたズッキーニとキュウリの浅漬けを安いキムチの中に放り込んでおいたやつも、なんとなく食べごろで飯がうまいです。 
ところで、血パンダにはちょっとした元手をせしめるチャンスがありまして、それ以来、なんとなくその予算で公演を回しております。過剰に自腹切ってないわけですね。
その分、もうちょっとなんかないもんかなぁと思う瞬間もあるわけですが、とりあえずはいい感じで公演にはお金かけずにやってきております。
こういうことをしているとすぐに、夢をどうのこうのとか言われるんですが、なんせまぁこういうものを苦労して作れば、なんだか報われることがあるということを知ったからやっているだけのことでしt

そういえば、血パンダは役者やらスタッフやら募集してますよ。スタッフはある程度経験あると、主に俺が助かりますが、役者はとりあえず演劇やったことない人の方が、いろいろ悩まなくて済む傾向にあります。
変に演劇の経験があると、演技に対する先入観みたいなものを手放すのは、なかなか難しい様で、と、そんなこと言って脅してどうする(w。
なにはともあれ、団員募集しています。

2015年7月8日水曜日

ものは言いようで、空き店舗利用の文化行為だった。しまった。

血パンダの公演『Ostinato』が迫っているわけですけれど、思えば特設劇場シアター血パンダは、高岡大和前の一等地にある空き店舗ですよ。
高岡市民を通じて、高岡市役所とかになんかお願いしてお金せびり取れたり、取れる方法模索できたんじゃないのかと思ったら、残念至極です。くっそ。こういうのに上手に気がついて行政からチューチューするには、コーチかファシリテーターの勉強でもしたらいいのか?もしくはまちづくりに食い込めばいいのか。カフェ開業か。
アートを保護しろ!責任者出てこーい!とか、まぁ、こちとら爽快な演劇とか夢を実現させたいとかいう活動ではないんで、うんこみたいな冗談はさておいて、いや、さておくとしても折角の田舎なんで、そのうち自分たちのアトリエぐらいは、なんとかしたいものです。
風通さんといかんし、電気代と水道代を自分で払ってくれたら好きにしていいよ。とかいう危篤な家主さんが居られたら、お知らせください。
あれ?そのままなんか小屋として使える様にチマチマ平台とか箱馬作っていけば……。いいなぁ。大家さん特権として、そこで行われる催しは顔パスでいけるってのはいかがでしょう。
ご連絡、お待ちしております。

胡乱な話が勃発したので逃避……。

朝からきな臭かったので、それを避けるために『マッドマックス』に避難。とはいえ、文字通り避けているだけでただの逃避でしかなくて、結局は時間取られてしまう。
あ、見たので『マッドマックス』については喋れる様になったよ。
本当に胡乱で、いろんな意味でここに書けない話というのはあるもので、しかも、本来は俺の問題じゃないんだけれど、避けて通るわけにもいかない。
無視していてもいいけど、関係ある話しになった瞬間からとてもややこしいことになるので、最初から関係しておかざるをえない。
なんじゃこりゃ。まるで政治ですね。本当に、徹頭徹尾どこかで勝手にやってくれるだけなら、ただの香ばしい話しなんだがなぁ……。

2015年7月7日火曜日

不味いなぁ。目だけ尖っていくとか今更恥ずかしい……。

ここしばらくの懸案だった火鉢を入手。睡蓮鉢。
というか、このごついのは睡蓮なのか?なにはともあれメダカも無事泳いでいるので、よしとしよう。

ここ暫く、手数のあげ方について考えている。その必要に迫られている。
いろいろ考えてみたが、自分の活動に絞るだけにして、人の養成も必要以上にはやらないでおくことにすると決める。
とりあえず、無駄を省くという楽な方向に走ってみる。
今の時間配分の中で一番無駄だったのは、何かを教える時間だ。これを、チームのクオリティの向上か、必要のある人に有料でということにする。そんなスタンスに体を慣らしていこう。

映画に駆られている件

と、そのくらい余裕が無い原因というか、映画作りたいんですけど、どなたかプロデューサー居ないもんでしょうか。困っております。
実績とか評判って意味では、なんせインディーだし、全うにビジネスになった記録は無いんですが、それでも不滅に近い普遍性を持つネタが昨年辺りから、またぞろ柴田剛との間に転がってまして、こいつに決着をつけてしまわなければ、どうにも残便感で夜も眠れないものであります。
『おそいひと』同様、すり減りにくい普遍性のあるネタな上に、「障害者」というわかりやすい判別機能も含まないので安心。
こんなことを書くと、ソッコーで今どきはクラウドファウンディングだとか言われるんですが、ここはひとつ、そうでない手法で、なんとかならんものかと、ずっとモノとして残って何度でも上映できる映画にはそこも重要でして、まぁ、このハナシは割愛でもいいや。
なかなか、インディーで映画を撮り続けられるサイクルに柴田を放り込むってのも難しい時代。なんとかならんもんだろうか。柴田本人も改めて呼吸整えているので、どうにかしたいところ。

それにしても、本当にいろいろ詰まっているので、順次消化していきたい。

読書

ちょっと前に買っていた『U理論』。つまみ食いをやめてとりあえず頭から読みなおしている。
帯の紹介にも味わい深い一冊とあるが、なんというかそんなに刺激的でもなく、優しいキャラメルの様な、だるいなおい。
だるいけれど、いきなり時間が過去から未来に向けて流れるって体感自体が錯覚とか、通じないことを言ってもしょうがないので、これはこれで良いキーワード集。きちんと読みます。
そういば、周囲の流れに負けて『稼ぐ町が地方を変える』も買っていた。これは確かに盛り上がる。走りだしているものの軌道が変わる力になりますように。

2015年7月6日月曜日

甲府まで強行軍で体がガタガタっす。

甲府まで車で行って戻ってしていたら、帰宅しても使い物にならず。
流石に体がオッサンなため、二日分のまとめ。

土曜、甲府桜座にて行われる「第7回悶★カーニバル『霊感ヤマカン第六感』友川カズキを迎えて」
http://atemzeit.fem.jp/gt/
のために、甲府入り。

道中、多少Ingressの実績を稼ぎつつ、甲府中心部が緑に沈んでいたものの、着の身着のままで、弾不足。現地調達で、なんとなくできる範囲できる時間で稼がせていただいた。
どうせなら、もう少し遊ぶ準備をしてからでも良かったかと思いつつ、何名かエージェントと推定される人の背中を確認。みっちり市街戦しに来てもいいなという甲府でした。
また行くことがあれば、予め弾持って、Ingressする時間の余裕を持って行きます。

悶★カーニバルを主催する友人、日向がとにかく、友川カズキに蹂躙されるのか、何が起こるのかということで、見に行かざるを得なかったわけだけれど、結果的に良いものを見させてもらった。
これに関しては長くなるので割愛。友川カズキの言を要約するなら「ずっとサビで気が遠くなる、悪魔のようなキチガイバンド。もう山梨には来ない。ほうとう嫌い」と、そのくらい素晴らしかったわけだ。
終盤、日向がハードコアのビートを叩き始めたところから、ごりっとはめてくるのかと思えばそこもしっかりすかしてくる辺り、何を追いかけるのかということについて、バンド各人の個々に追うものが個であり一となって、そのまま乗せていただいた。良い経験でした。

ところで、会場になっている桜座は10周年とのこと。1階にあって搬入搬出もしやすそうで、ロビーでそのまま打ち上げもできる。
何か表現しなければいけない人間というのはどんなことをしようが勝手にやるのだけれど、そんな人間が、何かの間違いで刺激を受け、研鑽しあうきっかけになりそうな場所というのは、なかなか得難い。あると知っていても行かないことと、無いことには、雲泥の差がある。

なんにしても、次回から車で行くときは、もっとちんたら移動します。

2015年7月4日土曜日

久々に、書けないことだらけの日

日記晒しておきながら書けないことだらけってのはどういうことだというハナシなんですが、書けないものは書けない。
いろいろなことはあったし、考えもしたけれど、これは書くことじゃないやって日ですな。秘密保持の身体感覚ですな。

他人の情報は整理できますが、自分のは整理できないというか、説明する相手によって説明の内容が違うというのはよろしくない。自分が何者か、なにができるかについて、もっと明快に言葉になるようにしていこうと決意した日でした。
ホームページ屋は不正確なのものの、一番楽な説明だけど、デザイナーなんだと言われると違うよと答えざるを得ないので、やっぱり迷路の入り口。精進します。

精進といえば、ここしばらくの仏教ショックで、ちょっと座りに行かなければならない気がしているというか、座ったらどうなるのか、体感してみたい。
しかしそれは、マリネッティの未来派宣言にやられた頃の自分が感じていたこととは全く違うわけで、こういう流転からの脱出も含むとすると、それは

それは良し悪しの、と書こうとして、そういう二極ではないところかとなる。
とりあえず。

2015年7月3日金曜日

不思議なもので、一気読みできてしまう新書というのはなんだか残念な気分になる。

書店にて『荒木飛呂彦の漫画術』という新書を目撃。思わず購入してしまったものだが、とりあえず丁寧に良くまとまってはいるものの、この感覚が理解できなかったり、ある程度の経験的な蓄積が無かったりすると、例示自体が理解できずに混乱する部分もあるのかもしれないと感じる。
どんな感覚を身につけ磨いていくかということになるのだけれど、単純に経験してみるだけではにわかには理解できないことというのもあり、それを言葉説明するのは、なにかと難しい。
説明できない部分は感覚として身に付けるしかないというところに、もう少し踏み込めなかったものかと、執筆構成にアドバイスをした人が理解できなかったり踏み込めなかった部分の記録とかがあれば、そっちを読んでみたい。
そういえば、一応内容が加速していくなかで危険な名言があった。
褒められて伸びるのは子供だけで、むしろミスや失敗から次の作品へのヒントを貰い、書き続けられるのだと思います。
現場では伝わらない系なんだけど、ここに至らなければ、何事も長続きできない気がする。
ここに至らなくてもいいってことで、使い捨て前提で諸々端折ると、飲食店の洗脳朝礼みたいなものに行き着くものと見る。

夕方、シェフと打ち合わせで出てきたネタを、井波の彫刻師の人に聞いてみる。
突然の胡乱な話しからも、実行する時の問題点をしっかりと割り出してくれる。
些細なことだが、やってみなくてはわからないと片付けることも、文字通り思考停止。見習わなくてはならない。

なにをどんな言葉で言い表すか。
厳密さを欠いて問題ないことと、とにかくしっかりと把握していくための言葉を磨かなければならないことはある。
縁の吟味は難しいが、とりあえず縁だと感じたとしても、与えず受け取らずをしなければならない相手というか、そういう関係も少なからず存在しているものと思う。
全てが縁となり、例えば悪縁、良縁の二極で片付けられるものかといえば、それも大雑把な話し。
価値観の違いで人は殺しあってしまうものだが、だからこそしっかりと考えなければならないし、どこまで突き詰めても、結果殺し合いというのではダメ。
とはいえ、そんなもんでしょ?とりあえず経験。というのが、どんなことになっても、身になる体験で、しっかり次につながるのか。その辺りを忘れてはならない。
というか、次につながるって何?という感覚の養成を、大人になるまでにやらなきゃいかんってことだな。

2015年7月2日木曜日

教室ビジネスの暗部というか、なんだろ。決してプロ論ではない。

来週10日、11日と公演の近い血パンダの稽古上がりで全く着地点なく、あまりに散漫だったたので一旦寝てまとめなおす。

二日ほど連続して「自分が正しい」という主張と対面する。どうにかして自分のロジックを挟むのではなく、なんでそれが正しくないと判断されたのかを考えれば、普通にできることはありそうなものだが、「正しくない」状態では地に足がつかず、そんな状態では何もできない気がするということなんだろうか。本当はその辺が知りたくはあるが、これはやむを得ない。誰が話しても同じ言葉やテンプレートに則った思考はゴミ箱に。

丸パクで独自流派宣言って、武道だと消されるレベル?

夕方、ブログの添削やら何やらの指導をしているパステルアートの先生から連絡。
協会規定のカリキュラムを半分しかクリアしていない生徒から、Facebookで親子パステルアート教室のイベントへの招待が来たとのこと。
協会資格は国家資格というわけではなし、命に関わったり免許がないから罰されるという類のものではないが、その、もう私にもできそうだからやってみようという感覚の正体はなんだろうかと、なかなか重いテーマをいただく。

俺にしても、ブログ添削やらWeb利用法の指導も特に何かの資格を背景にやっているわけではない。
ただ、伝えなければならない価値や、自分のやりたいことをどうやって相手に伝えるかと考えた時に、しっかりとした蓄積がWeb上にあれば、ひっかかってしまった人がむさぼり読むしかないもの、文字通りの網を用意する精度の向上を基本に指導をしている。
情報の整理や作っていく過程で、他人の切り分けというのはかなり必要で、ビジネス必勝本の次のレベルの地味な現場作業だ。真面目な網目づくりには、ビジネス本のテンプレートに収まらない部分も多く、常に進行形の作業になるので、できない思考回路の人には全く向いていない場合もある。
と、ここまで書いたら、わかる人にはそういう着眼点でやるのか、パクっておれもやろう。という風になるかもしれないけれど、そこで違うのは、訓練と周辺知識と場数の差という職人的な技の部分になる。

さて、パステルアートに話しを戻すと、件のまだ訓練途中の生徒の方がやっているのは、一人でお手本を見て描くというカリキュラムのもの。
親子パステルアート教室というのは、俺がブログの添削指導している先生が、自分で模索して始めていることで、実際には描いたり教えたりの過程の中で行き着いたものだ。
訓練も場数も足りないのに、何故、自分にも教室ができると思ってしまったのかといえば、やったことないけど、なんだか出来そうな気がしたから。というところに尽きるだろう。辛うじて上面はなぞれるし、親子パステル教室で、どの様なことが試みられているのかは、俺が指導しているWeb上の記事を読めば、方向性や輪郭は掴める筈。
しかし残念ながら、せめて安定した技術か、ある程度の経験が無ければ、上面から読み取れる親子への効果も、実際にはあまり発揮できず、ただ描いてみたで終わり、他人の好奇心を消費して換金するだけのものに終わるだろう。
パステルアートへの適切なイントロダクションにすらならない可能性が高い。

まとめると、Facebookのイベントで招待かける時に、ライターにブログ教室とか、必勝本的なテンプレートなぞるセミナー受けたけど、なんだかしっくり来ない人たちの面倒を見ている人間に必勝セミナーとかの招待するのは気をつけなきゃいかんってことなんだけど、それはつまり、ブローカーとしてもイントロデュースする人としても質が低いので、結果的に、君がひっぱってくるセミナー屋さんの評価にも関わるから気をつけたまえということでもある。
今回は、本人がやらかしたので、彼女が習い事をするために近寄る先生方にも注意喚起か?
これ、蛇足なうえにミスリード誘うな。いいか。そのつもりで足しました。

血パンダ

血パンダの土曜日の前座をやってもらう璃璃さんが稽古の見学にきてくれる。
声が良かったので、とにかくお願いしてしまったものだが、団員からは「オッサン、そういう女子の騙し方はどうよ」というありがたい反応をいただく。
歌声を披露してもらい、一同納得がいった様子ではあるものの、「うわ、好きそうな声この野郎」と、概ね「いいの拾ったので褒めて褒めて!」とアピールする犬の気分は満喫できた。
璃璃さん、ストレートに半泣きな、いい声がぶつかってきて非常にいいものです。富山駅付近や環水公園界隈で歌っているらしいので見かけたら、ぜひ足を止めて耳を傾けていただきたい。
音楽良かったけど、オマケの演劇が……。という評判を阻止せざるをえなくなり、これまでにない危機感を抱いた血パンダ公演『Ostinato』は10日、11日、高岡大和前の特設劇場で実行!
「いい歳して、これをやるんかよ」という、ひょっとしたら演劇やってた人誰しもが、一瞬挑戦しかけて、あんまりいいもんじゃないかも……。って理由でやめたことを、そのままワーイとやり切ってしまいました。
「仲君、俺も同じこと考えた、でも、これはやっちゃダメだよ」と言いに来るチャンス!
ああ、普段なら戯曲公開するけと、『Ostinato』は無理なんで、公演に来なかったらなんにもわからないです。

2015年7月1日水曜日

Facebookで狭まる田舎の社会

地元氷見を拠点に食育ボランティアをしている母のグループはどうも災難続きで、恒例となっていた市内の幼稚園、保育園の年長さんに対する魚さばき体験は市からの予算が削られて、全員に実施していたものが、半分の人数にしか実施できなくなったりしています。
なんやかんやでそれでもマメに活動はしているんですけど、昨日、夕食の折にプリプリ怒りながらなにを言いだすかと思えば、来月計画していた食育イベントで、氷見市の施設を借りることにして申し込みをしていたものが、その場所で詳細未定の大学生のイベントをやることになり、予定通り施設が借りれなくなったらしいんですわ。

既に孫を持つ歳のオバさまがたの活動ですよ。特段法人化しようってもんでも、ガンガンあちこちから活動資金を捻出してこようってものでもないので、こういう動きひとつひとつが、なかなかの運営努力の末に成立しているんだということはさておき、夕飯食いながらぶつくさ言う母親の姿がなんともいえなかったので、Facebookにそのことを書いたんですわ。
書き込みしてからプライバシー設定がなんかの弾みで「公開」のままになっていたものを、デフォルトにしている「友達」に戻すか考えたんですが、「またハゲが、わけのわからない文句言ってる」程度の影響しかないだろうってことで、放置しておりました。

結果的には42人が「いいね!」して、その日のうちにコメントも付いたんですが、今日の夕方に母から、「あんた昨日私がブツブツ言うてたこと、Facebookに書いたんけ。誰見とるかわからんから消しといて」と言われたわけですよ。
すげぇぞソーシャルネットワーク!
母はパソコン使えませんし、携帯もガラケーです。で、俺の友人で母と直接つながりのある様な人間が、母に何か言うタイミングは無いし、あったら俺にも言うと思うので、「いいね!」をした人の向こう側に居る人から、オフラインで母に書き込みのことが伝わったことになるわけですよ。

【俺】→【友人】→【友人の友人】→(オフライン)【母】

ということですね。Facebook凄いやないか。
俄然、やる気が出るというかですね、やればできるということを実感したわけですが、問題はそこじゃないんすよ。
当然、アホな話しを聞けばアホだなぁと言うのをやめる気はないんですけど、どっちかといえばそもそも、このエントリーの力点は後半約140文字。引用するならこちらですよ。

トトボチを利用したトト夏カレーというのを見る度に、憤慨しながら飯を食う母を思い出す可能性を孕む、プルースト感の強いエピソードをわざわざありがとうございます。おお、母が孕むとしたら、生まれるのは弟か妹かどちらだ。
そんなこんなで、夕飯が何処に入ったやらわからなかった現場からは以上です。

この渾身の「またハゲがわけのわからないことを……」パラグラフが、全くなんの役にもたっていなかったことの方を嘆きたいわけです。修行足りんかった!
最近、プルースト使いすぎたか、しかもトト夏カレーってあんた、紅茶にもマドレーヌにもひっかからんやんけとか、「俺」が思い出す可能性を孕むのに、「母が孕む」と運んだのが無理筋過ぎたか、でも、そこは45歳からのエディプス・コンプレックス割引とかあって然るべきなんじゃないのかと、悶絶したものであります。
結果的に、母からの「消して」というありがちな反応どころか、Facebookで友達関係にもなっていない、子どもたちの食育よりも詳細未定の大学生のイベント(母からの伝聞)を優先した、氷見市の施設の方から謝罪メッセージまでいただいてしまうという、意図しないどころか、そこ俺になのかということも少し含めて、本来あってはならない事態に至っており、なんというかまぁ、人間なにごとも精進を怠ってはならない。私もまだまだです。
生きていかなければ、生きていかなければねぇと、プルーストがダメならチェーホフを思い出す、そんな一日でした。

2015年6月30日火曜日

堂々巡り。以前買ったのが2006年1月26日らしい……。

改めてSkypeで相談することの多い日々。
相談したら次は共有やら作業やらという流れになるわけだが、とあるコミュニティで、グループウェアでの情報共有とタスク管理がそんなに難しいことなのかと、かなり疑問を感じながら日々を過ごしていた。
単純なことで、クオリティが下がることを防止するために頭を使う習慣がないというか、そういう感覚が無いことが原因。
無いよりマシ、やったからオッケーのフラグ立てでクリアできたことにするという、結果オーライの悪習が根にあるものと見て取れたので、それはそれで前々からの観測の通り。というのが、本日の収穫なんだけれど、こんなもん収穫してもしょうがない。
ほんの少しの先回りと確認ができれば、スムーズにクリアできて見えることもあるだろうが、やってナンボがスタートなので、些細なもののクオリティのボーダーラインを越えるために終わりが見えなくなる恐怖というのは、誰も幸福にしない。

先に声出していくことから、実際に手を動かしていく流れの重要さについて考えたいところ。
やったことないとか、完成がイメージできなかったとしても、挑戦はできる筈。
挑戦の仕方について学べるのは挑戦したときだけなんだが、フラグ立てるだけの動きではなにひとつ把握できないで、幻に近い期日だけが過ぎ去っていくことになる。
言葉にすると当たり前だが、目の当たりにすると結構怖い。気をつけなければ……。
そういえば、初めて就職した時に、上司がいい本だと教えてくれた本のうちの一冊。買ってはその度に誰かにあげていて、旧版含め三回は買っていて、今はまた手元にない。
『ノンデザイナーズ・デザインブック』は理由の無いものは地上に存在してはならないという話しの根拠の一部として利用された。
そしてまた、この本のことを思い出しているわけで、一体なにがどうなっているんだという話しですよ。

2015年6月29日月曜日

レインボーやらなにやら、何も無い日にもネタはあるもので……。

昨日よりも更に薄い一日。
午前中はネパール地震チャリティーコンサートの絡みで娘を連れて高岡のおとぎの森へ。
帰宅して、ずっとカートゥーンネットワークで『アドベンチャー・タイム』。面白いものはしょうがない。

米国の同性婚合法化の記念でSNSのアイコンに虹装飾を加えるというお祝いで、案の定カミングアウト云々という反応が散見される。
どうでもいいことだが、こういうのが別の例でいけば、あいつはアカだとか、世の中が戦争しかないという雰囲気に突入した途端に「そういえばおまえは戦争反対だったよね?」と言われて警察に引っ張られるってのの原因になるやつか。そうだな。
何かに対して共感、興味を示しているだけで当事者ということになる図式。
特に何も考えていないからこそ発生する、長いものにまかれて定式化される短絡の回路が、なんだかんだで多数派の印象という圧倒的な圧力を作るわけだから、そう思えば、世の中が変わることはなかなか難しい。
そんな意味では、現実に追いつかないと言われがちな法律が、この現実をカバーすべきとロジックを示したわけで、お祝いも必然かとは思うのだけれど、そういう感覚もなかなか共有されないわけで、各々自分のことで忙しいから社会問題には当事者にならないと構えないという、かつて聞いた分析に、確かにそのとおりだとしか言えないことを再認識させられた。

大阪に帰った中村からのメッセージで、昔、カレーフェスタでスタッフに悪態ついてカレーぶちまけたんで抗議に行った店のオッサンと衝突したことを知る。またなにがあったやらと思ったら、予想以上のくだらなさ。
富山県の自慢がしたかった様だが、全く逆効果で目も当てられない。
抗議の折には、有名ブランドを路面店で扱う厳しさについてや、早くに父親を亡くしたことについての泣き言を口にしかけて耳を貸さなかったものだが、接客とはなにかについて、改めて考え、いや、考えなくてもいいか。特殊な事例でした。
某有名ブランドも、なかなか個性の強いところに品を卸しているもので、ピリッととんがった地方戦略ですよね。