2013年12月30日月曜日

富山でTEDxをやる準備:プレゼンの起承転結?

富山でTEDxをやる組織を作るために、TEDの勉強会でもしようかという企てに加担することにした。
TEDのトークを見て、みんなで話しをしようよというもの。
最後に振り返りついでにプレゼン講座をして、参加者する人を徐々に洗脳しようと目論んでいる。

今回のネタにしたのは、ジュリー・バースティン「創造力を育む4つの教訓」。
http://www.ted.com/talks/julie_burstein_4_lessons_in_creativity.html

このプレゼンをネタに、聴衆を「掴み」、掴んだ上で自分の伝えたいことを聴衆に「渡す」そんな行為に着目してみよう。という内容で喋ったので、とりあえずまとめておく。

プレゼンテーションで物語を語ろうとすることは非常に非効率だ。構成が不味ければ、だれてしまって何も伝わらなくなってしまう。
起承転結に当てはめている様に見える、なんの魅力も無い通り一遍の説明が世の中にあふれかえっていてもなお、起承転結が重要と信じて疑わないのは何故か、自分に問うたことはあるだろうか。
ジュリー・バーンスティンのプレゼンを、その背景に物語があるという前提で見てしまうと、全く混乱することになる。
彼女はなぜあの順番で事例を紹介したの?一連のストーリーはあるの?
ストーリーを見いだす努力はしても構わないし、事例の並びにも巧みさは感じられる。ただし、このプレゼンテーションは、例示と主張を繰り返して、単純で力強い文脈を確実に浸透させようという構造になっているので、ただ言われたことを素直に聞くだけで良い。
実際に、プレゼンテーションの要素を分けて書き出してみる。

【枕】
1.器を上から写したスライド
一瞬何かわからない美しい写真。
大学時代に作った楽焼きの陶器を今も机の上に置いているという画像の種明かし。つまり、小さな「何?」という興味をひくところからの導入。

2.日本の楽焼きについての解説
「不完全さ故に愛されてきた」というギャップの提示。
ここで、日本では竃から取り出してまだ赤い器を緑茶に漬けるが、アメリカでは大鋸屑にまぶすため煙の匂い服で帰宅するという余談は、後の伏線になっている。
楽焼きによる創造の過程により、創造にはコントロールできるものと受け入れざるを得ないものがある。

3.器を落としてみせる(失敗)
器を落としてみせるが、器は割れない。本来は割れる筈だったと本人は言っている。
割れても割れなくても、創造にはコントロールできるものと受け入れざるを得ないものがあるということは伝えられるパフォーマンス。
経験を受け入れることが必要になる。

【例示】
4.インドで育った映画監督の談話
校庭にあふれる情熱と大麻。突飛に感じられる組み合わせ。
スピーチでの紹介だけでなく、本人の談話を再生。
日常の中にも、ひらめきを受け入れるチャンスはある。

5.重度の識字障害の作家
識字障害の作家。イメージのギャップ。
スピーチでの紹介だけでなく、本人の談話を再生。
課題を受け入れる。困難の克服。

6.ラス・メニーナスから生まれた現代美術
有名な考察が存在している絵、その考察と重なる発見から生まれた創造。
スピーチでの紹介だけでなく、本人の談話を再生。
絵画という技法から、立体に移行する探求。
絵画ではできないと感じた自らの限界を受け入れて、更に前進しての創造。

7.9月11日以降の現場の記録写真
壊滅から再生を信じること。9月11日のテロ現場の記録写真。
スピーチでの紹介だけでなく、本人の談話を再生。
喪失を直視し受け入れる。「撮るしかない」という確信とこだわり。
家族のところに帰ったときに、服に付いていた煙の匂いについて言及。2のパートので服に付いた煙の匂いとの呼応による強調。

【まとめ】
8.経験、課題、限界、喪失
創造力は人にとって不可欠だという主題の提示。

【まとめ2】
9.割れた後、金継した日本の器
壊れてなお、作られたときよりも美しさを増すこと。
創造と破壊。コントロールと受け入れ。人はこれらの循環の中に居るという主題の強調。


このスピーチの構成を、枕、例示、まとめ、まとめ2と4つのくくりがあるから起承転結だとか、まとめはひとつと考えて3つのパートに別れるから序破急だというのはナンセンスだ。
このプレゼンテーションは「簡単な導入」「例となるスライド」「本人の談話」「主題の提示」という構成で繰り返されている。
ギャップやエキゾチックな組み合わせで好奇心を刺激し、主題の提示を繰り返す。つまりは聴衆に対して「掴み」と「渡す」を繰り返している。
彼女はひたすら同じメッセージを繰り返し、例を変えながら主張を強調しているので、敢えて物語的な時間軸があるとすれば、それはジュリー・バースティン自信がこれまでの多くの人々にインタビューしてきた事実がそれにあたる。彼女のキャリアは現在も継続しているので、スピーチの中では完結しない。

このスピーチには、人と対面して、何かを渡すときの動きに似た以下の構造が見て取れる。

1.ものを渡したい相手に声をかける。
2.相手がこちらを見たのを確認する。
3.相手に渡したいものを差し出す。
4.相手の手が出たのを確認してものを渡す。

注意を引き、主題の裏付けになる誰かの声を聞かせ、主題を述べる。
話者となって人前に立つ人間と聴衆の関係は常に、個対多だろうか。
スライドやスピーチを組み立てるにあたって、誰かが言っていたことに盲従するのではなく、自分自身が聞く人に何を渡すのかに気を配りながら喋るイメージで構成すれば、伝えたいことはよりシンプルに伝わる筈だ。

2013年12月21日土曜日

今後のこともあるので「みつを」撲滅について

みつをやみつを的なものについては折に触れて攻撃を続けていて、それにしても君はみつをが嫌いだねぇという話しなんですけど、あれは危険なものなので、なんで攻撃するかについて改めて詳らかにしておこう。

人間、生きていくには自分以外の他人と関係しなければならず、関係が生じれば、その濃さに応じた承認を必要としてしまう。
それこそ、接点ができればその瞬間に自分とあの人はどんな関係なのか、勝手に定義してしまう。
みつをはその辺の困難に目をつけて、他者無しで楽になろうぜとよびかけている。
自分だけの世界を見て楽になろうぜと勧められてるんだから、それを受け取った瞬間になんとなくほっとするのは当たり前。
でも、そこが問題。
自分じゃない人間を相手にして、疲れたり傷ついたりおかしくなったりするという摩擦に、自己肯定を持ち出してもなんにも解決しないし、そのまま他者との関係に晒され続ければ、順当にすり減ったり関係が変になっていくだけです。
他者は消えない。君と彼らとの間に流れている時間も止まらない。
世界との接し方として、なにがどうあれ先ず自分を肯定するなんて、そんなのが心にいいわけないじゃないか。他人は消えてなくならないし、それこそ自分一人だと生命の維持すら難しいのが人間ですよ。
みつをの言葉を受け入れるなんてのは、自分しか自分を認めてくれる人間が居ないとか、その手の寂しいことが口から出てしまう状態に陥る最初の一歩です。
世の中に自分だけってことはないわけで、大なり小なり衝撃はあるんだから楽天的にいこうぜってんならまだ正常ですけど、安心して自分を肯定してればなんとかなるよってところにとどまってるわけで、まやかしでも最悪の部類ですよ。
楽じゃないのは当たり前だからこそ、楽天的にいくのが大事なわけです。
全員がみつをの言葉の通りに生きる様になったら?
ブツブツと自分を励ましてるだけのへっぽこ二等兵を束ねて、こいつら使えねぇなぁって舌打ちしながら使役する人が、のんびり搾取の方法を模索する世の中になりますよ。勘弁です。

2013年10月12日土曜日

小ネタを深堀りする観光情報発信

ここにはなにもない。
多分、観光地ではない田舎でよく聞かれる言葉だ。少なくとも、富山県氷見市では氷見には何も無いという人間が多い。こんななにもないところに来てもしょうがない。
日常生活を営む場所で、いちいち見どころを求めて生きている人間は少ない。だから、これはやむを得ないことだ。
高度に観光地化されている場所の住民と、そうでない場所の住民はそこが完全に違い、観光地でない場所に住んでいる人には、敢えてこんな問いかけが必要になる。

「本当になにもないのか?」

氷見市に一体何があるのか。それを細かく掘り下げてみよう。細かなディティールを明らかにすることで、多くの糸口のようなものが見つかる。それを丁寧に発信すれば、氷見という地域そのものに好奇心を刺激される人間に届く。今はそんな時代だ。
ただ漠然と訪れるのではなく、最初からディティールに目がいく様なイントロダクションから始めてもらえば、飯の記憶でも宿の記憶でもなく、そこで過ごした時間全てを持ち帰ってもらえる筈だ。
過ごした時間の記憶の長さと質。これもまた、観光地とそうでない地域には大きな違いがある。
こんな見方をするなら、可能性は何処にでもあると言える。氷見以上に小ネタの宝庫といえる土地もあるものと思う。結局のところ、どんな趣向で日常の時間から離れる手伝いができるか。そこに尽きるし、実際にはそれ自体がとても大きな問題だ。
なにはともあれ、そんな視点でスタートしたからには、これまでと違うものを見る手がかりになるものと考えている。

氷見の小ネタをどんどん叩き込んで行く場所「ひひひひみ」Web版
(残念ながら、ドメインが失効して過去に葬り去られている様です。役所の単年度の事業なんてそんなもんですかね……。)

2013年7月29日月曜日

背伸びについて考える。

十数年ぶりに劇団を結成して、会場で大道具を制作しているところに、母校の美術部の生徒達が、顧問の先生に引率されてやってきた。
公演は、地元のアートNPOが開催する展覧会に参加している関係で、他の美術作品と同じ場所に舞台を作る。美術部はなんでまた、ぞろぞろとこの場所にやってきたものか、詳しくは聞かなかったが、顧問の先生に作品についてさらっと解説してほしいと言われたので、さらっと解説して、自分で複雑な気分になった。

解説は、概ね以下の感じ。

演劇というのは、大昔は「憎い!殺してやる!」「大好き!死ぬしかない!」という、ものすごい感情で成立していました。
ところが、随分最近になってベケットっていう人が「明日、あのオッサンが来なかったら死ぬしかないね〜」って感じで「待つ」というかなりテンション低い感じでもいけるんじゃね?ってのが提案されて受け入れられて、おお、すげーってなった。
ここから更に現代に進んで、もう、誰かの固有の感情で一本のお話しになるなんてこともなくなって、登場人物の関係性の中で何か描いていくしかないんじゃないかってのが、この劇団血パンダがやっているお芝居です。
今回も、もう無くなっちゃうんじゃないかって仕事場で、皆がそれぞれいろいろ考えてるんだけど、お互い、話しが通じている様に見えて、それぞれ全く違うことを考えていたり、似た様なことを考えている人間が直接ハナシができなかったりと、そんな内容です。基本的に大事件とかありません。
「なんでハナシが通じないの?」とか、「なんで、この間と今、言ってることが違うの?」って気持ちになったことのある人には、丁度いいかもしれないけど、ひょっとしたら、目の前で人が喋ってお話しが展開しているのに、なにがなんだかわかんないってことが起こるかもしれない。

ううん。ぜひ、背伸びしに来てください。

とまぁ、なんだろ。何を喋っとるんだと、俺はと、そんな次第ですよ。
思えば、高校生の彼女たちがこれまで読んだ物語の中に、果たして「憎い!殺してやる!」とか「大好き!死ぬしかない!」ってのが軸になっていないものって、どのくらいあるんだろうか。
強烈なエゴというか、優れた感情というのから脱して展開している物語とか、ちゃんと読まれているだろうか。
背伸びしに来てくださいというのは、数十年前の自分の身に覚えから口走ったもので、背伸びしたい高校生が居る前提ではアリかもしれないけれど、ジャンルの歴史とかどうでも良くなっていたり、莫迦でもオッケーなのが善ってのが、消費側の是になっている雰囲気の今時はどうなの?と、そんな風にも考えてしまう次第。

いや、がんばります。言葉は通じないものだし、戯曲とメソッドは厳しく日本語の現代劇を模索しているけれど、役者が演じているところから更に何か拾える余白があるのが演劇の筈。

そんなわけで、誰にも期待されない場所で、ひっそりと前衛の模索、再開しました。
 劇団血パンダ・トライアル公演「発見」
もうすぐ初日です。

2013年5月18日土曜日

問いに対しての返答と、何を問うかということについて考えたはじめたまま迷走

先日、氷見にフィールドワークに来ていた大学生と雑談する機会があり、なんとなく心にとまったのでメモ。
全体、まとめには至っていないので注意。

商店街は本当にしょんぼりしているのか

彼女は商店街の活性化を題材にして論文を書く予定で、氷見に取材に来ていた。今後もフィールドワークを継続していくとのこと。
氷見の商店街は現在、氷見出身の漫画界の大御所、藤子不二雄A先生の作品を使っての町の活性化の試みを実行している。5月5日には藤子不二雄Aワールド祭りということで、市役所、商工会議所、商店街が一体になってイベントを実行している。今年は6年目にあたり、普段とは違うにぎわいを見せている。
商店街の活性化の試みとしては様々な努力がある筈で、人が出て楽しむこともひとつのきっかけにはなる筈だ。
しかし、氷見の商店街は普段はがらんとしている。人出が無い。人出の無さにめげる観光客が居るぐらいに、長大なアーケードを歩行する人が居ない。
人口が減り、商店街に用事のある人自体が少なくなったこと。路上駐車で自動車を目的地に横付けするので、そもそもアーケードを歩かないことが、現象としての人影の少なさの原因だと考えられる。
人影は見えなくても商店街が全滅しているわけではない。シャッターが降りていたり、そもそももう店舗ではない構えになっている家はみられるが、粘り強く活性化の試みができて、イベントも実行できるだけの元気さもある。つまり、まだ成立していて危機感を抱き、行動できているということだ。
全体の売り上げや中心市街地からの税収や、アーケードに面している建物の種類から、厳密に判断してからシャッター街かどうかは判断してみても良い。シャッターが降りているのは目立つ。それに加えてシャッター街という言葉にイメージを操作されていないだろうか。

その場所に何が必要なの?という問いかけ

まちおこしというキーワードに慣れ親しんでいる関係筋が、現在どんな雰囲気を共有しているのかについて私自身は全く知らないが、氷見においては、数年前に町おこし、空き店舗利用というキーワードの元に、試みとして作られたカフェが幾度か経営する人が変わって、最終的に店として定着していないことが強く印象に残っている。
最近も、氷見に近い新湊でも、まちなかに新たにカフェを作っているので、空いた空間に人の憩う場所を設けるということで飲食店を開設するという動きは一般的な選択肢として、実効力があると考えられているものと思う。
憩いの場所があればというのは、声も出るし誰しも考えることだが、どんな場所が必要か、それが自力で経営を持続できるのかについては精査する必要があるものと考える。
氷見では間に合わせの憩いの場の必要が無い程度に、中心市街地の飲食店は充実しているし、個々の努力は普通の営みとして継続していると見て良い。
結局、呼び込むべきは誰で、何処に向かって石を投げ、意見を吸い上げるのかという繰り返しの手がかりを何処に求めるのかという点で、他の地域の成功例を何処まで参考にできるかということには注意が必要だ。
次に全くつながらない、次が考えられない失敗だけが害悪で、それは避けなければならない。

活性化。個、全体。店、客。

先の学生さんがインタビューした中に、商店街のイベントに対して非協力的な店舗の意見を拾ったと聞いた。
商店街の一員として、イベントに非協力的というのは、一見、活性化に対して非協力的であるという判断をしてしまうが、実際はどうだろうか。
具体的には、しっかり対象を絞って経営している高級路線の店が、ワンコインで通りすがりの人々を相手に何か商品を提供するというイベントに、果たしてすんなり参加できるかという話しだ。これは当然、個々の店とコミュニティとしての商店会との関係性の問題であると同時に、店の余力の問題、店のイメージづくりや経営方針の問題も関係してくる。
その店舗自体が、人を寄せるという商店街の流れとかけ離れた顧客を相手に商売をしているとしたらどうだろうか。あらゆるビジネスが万人に親しみやすい必要は無いし、商店街の中にも当然、高級路線の店があってもなんの問題もない。
品質がよく、安くなければ売れないという先入観によって、実際のところ、高価で高品質なもの。いわゆる一生ものとか、祖父から、父から譲り受けたものという代物がすっかりなくなっている。
地域に密着した商店の力、役割とはなんだろうか。

2013年4月3日水曜日

悪ってなんだって話しとか、すげぇっす。


5歳になった娘が誕生日に映画が見たいと、そんな強烈なリクエストがあったので、プリキュアの映画を見に行ったのであります。

そもそも娘はプリキュアがテレビ放映していることを知らず、極めて断片的な情報で勝手に入れ込んでいる部分があるので、実際に動いているのを見せるのも、それはそれで面白いかということで、諾々と同伴しました。
最初はドラえもんとか言ってたんですわ。劇場で、「ドラえもん?」「プリキュア?」「ドラゴンボール?」と目の前にある選択肢を問えば、全く迷わず「プリキュア!」と返事が戻りました。恐ろしいものであります。

年代わりでシリーズを刷新し、女の子の心と親のサイフをがっちりロックするプリキュアシリーズだが、それがシリーズ揃い踏みとなったら一体どんな風にまとめていくものかと思えば、がっちり太い主題を踏まえ、非常に道徳的な内容で、そのあまりの力強さに微動だにできない有様。
悪を為すのは自分の影、理解されないからといって、相手を排除しようとしては元も子もなくなる。きちんと心を伝えることが大切とか、上映後、娘に確認したものの、プリキュアが頑張っていたところにだけ注目して、何も気づいていなかった模様。太い主題が素晴らしく自然に筋書きに馴染み過ぎて、太いままスムーズに展開していくので、家や幼稚園で日常的に怒ったり謝ったりさせられている五歳には、この葛藤よりも、そこから起こる混乱の収束方法にしか注意が行かなかった様子。
プリキュアシリーズの中には、最初はプリキュアと敵対していたものの、戦っているうちにやがてプリキュアに帰順してプリキュアになった連中も居て、敵は自分自身の中に内在しており、コミュニケーションこそが大切であるということを強調しておりました。
絶対的で根源的な敵対などあり得ないという主張だと、そんな理解で構わないですな。
なんでしょうか、日本の平和教育の成果というか、なんだろ。既に盤石じゃないすか?
つうか、「悪」「自分の影」というキーワードでググると、上位に表示されるサイトって、なんだか凄まじいですよ。

俺自身、お寺が経営している幼稚園に通っていたのと、家が浄土真宗で毎月普通にお坊さんがやってきてお経をあげていくので、仏教的な刷り込みってあるもんだなぁと思っているのですけれど、こういった宗教的な背景の無い皆さんの中には、プリキュア的な刷り込みをされる世代も出てくるのではないかと、その可能性を感じさせるものであります。
シリーズも10年目に突入して、5歳でプリキュアを体験した娘さんは15歳。なんとなく潜伏期間を置いて、彼女たちがお母さんになり始める頃にシリーズが一段落していたとしても、ここまで太いと確実にリバイバルありそう。そんな内容です。
特段評価して入れ込むとか、プリキュアはまっちゃったぜ☆ってもんでもないんですけどね。

2013年3月28日木曜日

なんやと全く。ええ。

今日の夕方、芸術学部文芸学科という微妙な場所に居た学生の頃、ドイツ美学が専門のゼミの先生と、他者ってなに?市民ってなに?って話しになったことを思い出した。
その場ではそれらしい結論には至らなかったものの、他者を意識しないまま、市民というものを口走るのはいかがなものかということと、他者を意識しないままコミュニケーションという言葉を口走ることの不可能さについて、今更の様に再確認することになった。

人の言葉を聞いて返すという行為の中で、フロイトレベルで弱くないか?と思わせる、自分に向けられた言葉という刺激に対して、自身の心を維持する壁が持つ必須機能レベルの機械的な反応を、公の場で人の前に立ってですら露呈し、そこに思い至らない人間が居ることへの驚きが消化しきれないまま一日を過ごした。

目から鱗です。素晴らしい気覚きをありがとうございます。感謝です。
この言葉の背景に明確に自己と他者があるか。
今、自分が感じている違和感を、自分自身が受容できるが故に内発として素直に言語化できる入り口が、ここにあるかもしれないと、そんな風に感じている真夜中であります。

2013年3月25日月曜日

とりあえず、候補者に質問状を出してみた。話しを聞く会を開催するのでみんな集まれ!

『氷見市長選立候補予定者に話しを聞く会』を3月26日の20時30分から光照寺の本堂で行います。光照寺、いわゆる「たこはん」です。入場無料。お気軽に。
氷見市の市長選に関して、候補者が準備した話しばかり聞いていてもしょうがないので、いろいろと頭を捻ったり、SNSでネタ募集したりして質問状を作ってみた。
募集に反応してネタを提供してくれた皆さん、感謝します。

そもそもの打ち明け話しだけれど、光照寺の前住職が「今回の選挙は両陣営縁が深くて頭痛い」という言葉尻を捕まえて、「じゃぁ両方の候補から話し聞く会とかやったら、ふんわり中立地帯っぽくならないですかね」とか、滑り込ませていただいた次第。言葉尻捕まえて面倒なことをお願いした上に、ブログでまで書いてしまって大変申し訳ない。

こういう会自体、うさん臭く感じたり、何が背景なの?アカ?とか気になる人も居るだろうから先に断っておくけれど、私個人的には政治的にも宗教的にも氷見市民の標準に近い環境に居たものと自認している。こんな感じ。
浄土真宗大谷派で、爺さんが自民党員だったことは覚えている。既に引退したけれど、爺さんの弟に富山市南部を地盤にした北電の労働組合出身の自民党県会議員をやった人が居る。
背景的には特段突飛なところは無いし、これをきっかけに利用して洗脳したり壷買わせたりする意図も無いし、無闇に「市民」ぶったりする気も無いと、納得してもらえればなにより。
氷見市程度の小さな市の市政ぐらい、そういうのが好きな人に任せておけばなんとかなるって状況でもなさそうだし、ちょっとなんとかならないのかということで、田んぼつながりで『自然農むすびの会』を主催している泉さんと協力しつつ、先のたこはんの前住職の話しなど、様々なタイミングが合って、こんな流れになった次第。
滅多に無い機会だけれど、今後、こういうのが定着するきっかけになれば、もうちょっと雰囲気が良くならないだろうかということを願いつつ、以下は質問状。

回答をいただけたら、告示まで短い期間だけれど、それも公開します。



質問状

 氷見市において15年ぶりとなる市長選が行われます。氷見市民としては、この激動の社会情勢の中、氷見市が今後どのように舵取りをしていくのか非常に気になるところです。
 財政難・地元産業振興・少子高齢化など、氷見市でも他の多くの地方同様に問題は山積みです。
 3・11以降、国民一人一人の意識には様々な変化があります。防災の面だけを見ても、これまで氷見市で意識されていた山間部での地滑りの対策に加え、津波対策や、志賀原発から30km以内の範囲にあることが改めて意識されはじめています。
 そこで、次期市長に立候補されるお二人の、氷見市政に対するお考えを伺う機会を作れないかということで、話しを聞く会を企画し、ソーシャルネットワークなども通じて、市長立候補予定者への質問を募集。10の質問にまとめました。
 非常にお忙しい時期かとは思いますが、ご回答のほど宜しくお願い致します。

  1. 今後、氷見市における豊かさは、何が基本になるべきとお考えでしょうか。
  2. 豊かさを獲得するために、何を実行していくことになるとお考えでしょうか。
  3. 氷見市の中心市街地の活性化は、今後どうあるべきとお考えでしょうか。
  4. 今後、氷見市の財政はどのような手段で立ち直っていくべきとお考えでしょうか。
  5. 国の政策が氷見市に及ぼす影響を、どう受け止めていくべきとお考えでしょうか。
  6. 氷見市における少子化、若者の定着についてどの様な対策をお考えでしょうか。
  7. 震災以降、話題になっている再生可能エネルギーについて、今後氷見市としてどの様に取り組むべきとお考えでしょうか。
  8.  現在福島で起こっているレベルの原発事故が発生した場合の対策について、どうお考えでしょうか。
  9. 志賀原発30km圏内の市政をとるにあたって、福島の事故に対してどんな見解をお持ちでしょうか。
  10. 志賀原発の再稼働に対しては、どの様なスタンスを取るべきとお考えでしょうか。

   
                  氷見市長選立候補予定者に話しを聞く会
発起人 仲 悟志、泉 誠

氷見市長選挙が15年ぶりに行われるわけだけれど、起きている波の割に微妙な状況に見える。


氷見市で15年ぶりの市長選挙が行われる。
保守系の分裂から選挙実行の流れになったものだが、現在の市長の後援会などで組織する後継候補選考委員会というのが、新聞報道されるくらいの勢いで動いての結果だということで、これが丸く収まっていたら、無投票で新市長が決まっていた可能性もある。

3.11以降とはよく耳にするが、果たして氷見市で何が変わったのかといえば、志賀原発との距離を再認識させられたことも含めて、何も変わっていないのではないかと思わせられる。
隣の高岡市で震災の瓦礫を受け入れるという話しの果てには、高岡市とその周辺でつくる広域圏のゴミ処理施設の建設という大きな金の行く先が存在があり、それは氷見市内に建設される。氷見市民の中に、震災瓦礫の受け入れに対する当事者としての意識はどの程度のものとして捉えられているだろうか。

ただでさえ結論の出にくい原子力絡みの問題があらわにしたことがあるとすれば、氷見市においては、結局3.11以降も、それぞれの人間関係の中で、声の大きい人間の影響力に準じて、「煙たい話題なので触れない」から「納得したから何か行動しよう」までの反応の濃淡があり、何らかの使命感や当事者意識、自分の意見を持てなければ、とりあえず同調しておくけれど行動はしない。3.11以前と全く変わることのない日常が営まれていると見て良いのではないだろうか。

それでも、これまで全く目が向かなかったことに、目を向けざるを得なくなったということはある。先ほどあげた反応の濃淡の一番淡い部分から、「全くなんの関係もない関心が持てない」が無くなっただけでも、十分な意識の変化と捉えることもできる。
ただ、こんな状況ですら、無投票で市長が決まる瀬戸際だったことには変わりがない。今もなお、声のでかい奴らに任せきりにしてなんとかなるという状況なのか、なんとなく景気が悪いどころではなく、自分の懐事情のみならず、住んでいる市の財政までもが思わしくないということに、どれだけの氷見市民が具体的な危機感を抱いているのか、そもそも、その危機感、不安から何をどう捉えて行動することが正しいのか。
実際のところ、誰にどんな質問をすればいいのかすらわからない。そんな状態ではないだろうか。

立候補予定者の二つの陣営が活動を始めてから早速はじまったのは、こんな義理があるので応援しなければならない。こんな関係があるので応援しなければならない。だ。これならまだ、選挙のたびに勝ち組負け組に分断されて敵味方が明確になり、実弾が飛び交う地方の方がまだ解りやすいのではないかと思わせられる様な、5万人程度だとこの狭さかという社会の構図を露呈している。

この選挙でしっかり選択しなければ、確実に氷見市は終わるのではないかと考えている。どちらを推さなければどうなるという話しではなく、むしろ、投票する側が選ぶ習慣を獲得する必要があって、このタイミングを逃しては次が無い。
そして、氷見市の保守系の御歴々も、保守の分裂という、嘘だとしても終わればノーサイドと言いやすい状況を利用して、選ばれるという癖を付けなければ、適者生存の理にかなった人材の切磋琢磨も無いのではないかと考える。
票ばかり読んでいないで、候補者を見て品定めしてくれよというメッセージをきちんと市民に届ける緊張感を持てば、小さな市の状況なんてものは、結構簡単に変わるのではないかと、今回の選挙の流れで体感される氷見市の狭さから、強く感じている。
住民の意識が変われば、何も起こらないなんてことは無い筈だ。