2017年2月27日月曜日

血パンダ公演『Generalprobe』前口上

特に「劇場」を絶対に使わないと決めていたわけでもないのですが、演劇やるにあたって劇場は必須のものではないと、とっくの昔に発見済みなもので、今回、結成以来初の劇場公演となります。
バトンに吊られている照明器具とか、なにもしなくても全暗転できる環境ってのは、やっぱり便利ですね。
「初めて劇場で」ということで「おめでとうございます!」とか言われたりもしましたが、そもそも念願とか全くしてこなかったので、その辺全く目出度くもなんともない、いつもの血パンダ通常営業なので、ご了承ください。

台本を書いて演出をする様になってから30年ほど経ちますが、これは同時に、感情移入がどうとか、共感できたとかできなかったとか、理解できたとかできなかったとかいう、どうにも消費目的の欲望との無駄な戦いとの年月でもあった気がしています。
そういった、どこで覚えてきたのかもわからない演劇を見に来る動機と戦うなんてのはそもそもナンセンスなことで、早々にそういうよくわからないところから降りて、極めて正直に、ただ圧力だけを用意する努力をする様になりました。
本当に悲劇しか模索しないし、演じられている場に吊り込まれた人の日常に、ほんのりで良いので侵入できれば良いと、それを目標にしてきました。

そうなるとかえって、世間的にそういう消費のされかた、期待のされ方をしていない様に見えるジャンルが羨ましかったりするんですが、じゃぁ、演劇やめてそっちやろうかとならないのは、なかなかどのジャンルも演劇ほど上手くマイナスの感情を無造作に放り出してみせることができないからだと、今回の稽古場で再確認したものであります。

Generalprobeとは、本番前に本番と全く同じ形で行うリハーサルのことで、日本ではゲネプロとかゲネとか言います。
日常が止まることなく命の終わりに向かっていく本番と捉えたら、演劇のゲネプロなんてのは、虚構のための完璧な予行演習という、ありえない贅沢な時間で、そりゃもう、出来のいいゲネプロは誰とも共有したくありません。
 
『Generalprobe』大変恐縮ですが、本番をごゆっくりお楽しみください。

2016年9月6日火曜日

血パンダ公演『それはサイコロの一番大きな目ではないなにか』前口上

多様さというのは、というか、人はそもそも多様であるというのは、当然のことだと理解しているつもりでは居るのですが、概ね同じものを見て、同じ経験をしていても、人の見解というのは本当にまちまちなのだということを痛感する昨今です。

遠くのことだったり、いちいち立ち止まらなければ、どうってことはない気はするんですが、日常的に細かく違うことを目の当たりにし続けると、いろいろと考えなければならないことも多くなって、個人的には楽しいんですが、こういうことをストレスに感じる人も居るんだろうなぁと、ほっこりしております。

「なぜそんな風に考えたの?」と改めて問うてみると、そんなものを根拠として採用して行動を開始したのか……。と、びっくりする様な場合や、話しを聞いていて、ところどころで、「あ、ここで考えることをやめた」と見て取れるキーワードと出会うのがまた人の罪深いところ。
なぜ、この人は、なんの話しをしていても、そっちにいってしまうんだろう。
と、なかなかそこまでの極端な人に出会うことは少ないですが、人というのは果たして、何らかの糸口を見つけて相互理解を進めていくのが良いのか、関係性というのはどの様に形作られていくべきなのかと、あ、悲劇は既に人の関係性の中にしか存在できなくなっているという血パンダの大テーマに囚われている私の目からは、なんせまぁ、いろいろそんな風に見えてしまうわけです。

いやはや、明日ってなんだ。どっちだ。

2016年8月26日金曜日

力加減について考える

なるべく平易な文章で書くブログというやつを、持っている中で一番長く確保しているドメインで建ててみたものだが、実は7月の最後のエントリー以降、ずっと小難しいことを考えていて、ではそれを噛み砕いて書くとなると、それはそれで仕事の内容にも触るので非常に都合が悪い上に、こちとら日常の中にはろくに打ち込んでいる趣味も持たないので、書けることはあるけれど、ちゃんと平易にはとてもできないという、大変困った状況になっている。
読んだ本も見事に資料ばかりだ。中には非常に極端な与太本もあり、これだけ抜き出してなんか書くと、唐突にそっちに行った人になってしまいかねない。
平易なやつはここね。 http://shiratama.net/

毎度、当事者にしかわからかったり、慣れた人間でないと読めない暗号で書いているわけだけれども、先日ちょっとした自己申告というか指摘があったので書いておくと、書くときに読点は意識的に減らしているというか、ちょっと息が長めのリズムで書いている。
その方がなんだかんだで暗号にしやすい。
耐性のある奴と興味のある奴と当事者にしか入ってこない文字列のできあがりというわけだ、構造的にはもう幾つかのポイントはあるけれど、面倒なので詳細は推して知るべし。

なんだかんだでFacebookになんか書く理由も無くなってきていて、なかなか面白い状況。
来年の夏ぐらいまでこのぐらいの速度で、できれば向こう5年ばかり、このまま加速していけないかしらと思いながら居りますです。
いろいろ手伝っていただけるとありがたいので、案内はその都度。

2016年6月30日木曜日

なるほど、その神社でパワーを貰ったんですねとか言いたくなったら、懺悔の念をこめて俺の手伝いをしてください。ひきよせも禁止。

ものすごい偶然のタイミングで、先日、とある神社に行ってきた。
そこで少し認識を新たにすることがあったので、現時点の記録。

神様に何か祈願して、それが叶ったらお礼参りに行くわけだけれど、例えば商売繁盛みたいなことをお願いして、繁盛したお礼に手ぶらで行く人は居ない。ありがとうございましたと、いう感謝の念と奉納するものもお金も、繁盛の度合いによって増えていく。
そういうのが夥しくなれば、放っておくこともできないので、神社という「場」は、当然神域ということで清浄にされ、盛んになる。盛んになればそれは単純に「ご利益」があるって話しになり、そこには益々人が集まる。
かなり乱暴な略だけれど、見て取れるものを言葉に変えるならこういう循環だ。

様々な場所で人が集められ、そこで「場づくり」や「チームビルディング」が意識されている。その場で得られたことに対して「目からウロコだった」とか「気づきを得た」とかいう決まり文句が聞かれるが、それが盛んになる神社のような循環を得られるのかといえば、誰かそんなことを意識しているだろうか。
感謝の念とか、ご利益なんてのは、神様相手のこと。人が集まって何かをする場合、そこのニュアンスはちょっと置いておいて、考えてみてほしい。
人が集まって何かをする場の循環。「世代交代ができない」とか「マンネリ」という言葉はよく聞かれる。
それを「魅力づくりに取り掛かろう」「マーケティングしよう」とかいう、できもしない具体性を欠いた思考停止向けの決まり文句で片付けるのではなく、自分たちができる範囲のことで、何をしていないかを考えれば、現状万全の対策を講じているということは、ほぼ無いのではないだろうか。足りないこと、やっていないことの把握と、把握したらやるだけ。それをしていない。
「できないからやっていなかった」ということもあるかもしれない。本当に必要なことなら、「できない」を「できる」に変えて実行すればいい。どちらにせよ、これまでと違って見えているのだから、暗中模索よりは格段にマシな筈だ。

2016年2月28日日曜日

血パンダ公演『夜は』前口上(2016.02.27)

文化を殺して金勘定だけを植え付けるから、ただ生きることから恋愛に至るまで、ありもしない利子の計算が始まり、人の関係はどんどん単純になっていく。
単純な関係しか知らない人間は考えることをせず、簡単に孤独になり、簡単に臆病になり、計算できる欲にだけ忠実になる。その結果、子供は全く計算不能なため、子供を作るという選択は消え、人は絶えていく。

シネコンができるから「街なかに映画をなくしてはいけない」ことが目的だったフォルツァ総曲輪が役割を終えて休館するというニュースに触れて、シネコンで上映される映画と、単館系の映画の違いもわからないという、マーケティングセンスを問う以前の、文化を認識する能力のあまりの低さに度肝を抜かれました。
9年間の映画館運営の果てにこの認識なので、問題は個人の資質ではなく、集団の、もっと致命的な部分にあるのだと考えています。

そんな中で、一般的な認識の枠を超えた場を作りたいというゴールドカレー富山豊田店のオーナー保坂さんから声をかけていただき、今回の公演が決まりました。
フランス料理店が舞台の『夜は』をカレー店で上演できる巡り合わせ。
劇場は最初からあるのではなく、演劇があればそこが劇場になるのだということを体験していただき、場とは何か、枠とは何かを考えてみていただくのもいいかなぁと、そんな風に考えています。

2016年2月24日水曜日

確かに、莫迦なことしてるなぁと思いながら遠巻きに観察することはある。やる奴はやられる。

演じている人間を見るというのは、幼い頃のままごとや、ごっご遊びから人間に刷り込まれた妙な決まりごとというか、習性の様なもので、とりあえずその良し悪しはともかく、演じている状態、演じているのに近い状態を目撃したら、心理的に一定の自動処理があるものだと思っていた。
それこそ、誰かがこう言っていたよと伝えるために、その誰かの発言の部分だけ、口真似まではいかなくても声色が変わる程度でも、それが演じられている状態だとわかる。
微細なものが判断できるのだから、あとはただ見るだけと思っていた。
ところが、世の中そう単純なものでもないらしい。
「バカなことしてるなぁ」というフィルターがあって、そこに引っかかると演じているもへったくれもなく「バカだなぁ」「楽しそうだなぁ」というところで判断が止まるという指摘を受けて、昨日目からウロコが落ちました。

亀吉という名の口パクのカエルから腹話術の練習を「手段の目的化」だと指摘される。

口パク人形が、ホドロフスキーの言葉を聞いて自我に目覚めたかの様にふるまう。

やりとりの内容も構造も、かなり長々と解説はできるものの、そんなことは敢えてするもんでもなし、確かにぶっつけ本番の勢いだけでやっているので、「いい大人がバカなことをしている」ムービーだ。
そうか「バカだなぁ」から先に行かないのか。
なんか作戦考えなきゃなぁ。まだまだクオリティ低いんだなぁ。

あ、真面目にやってる演劇の方の公演がまもなくです。
こちらもぜひ。『夜は』というお芝居で、フランス料理店のスタッフルームが舞台なんですが、それを営業中のカレー屋で演じます。あ、こういうのがいかんのか……。バカフィルターにかかる?バカフィルター?そういえば、『バカの壁』読んでないけど、こういうことへの対処法が書いてある?

血パンダのホームページ
http://blood-panda.net/
血パンダのFacebookページ(『夜は』のイベント立ってます)
https://www.facebook.com/BPchipanda/

2016年2月18日木曜日

箱の運営するってことは、作る側としては終わる気がする。そっちの方が嫌だわ。

映画館兼劇場って感じの文化の中心地の件。
思えばカレーフェスタやTEDxHimiも、ずっとこんな感じがスタートで具体化してやってきてるわけで、今回もそんなノリから始まりでいいじゃないかということだ。
本当に実現できるのかも含めて、ずっと継続して考え続けるし、何年かかってもいい。持ったまま時間経って、腐ってダメになるならその程度のものだったってことだ。
本当は、明敏な運営者が現れてくれれば、そっちの方が俺は自分のことができるので嬉しい。
興味があれば知恵と力を貸しておくれ!あ、金でもいいよ。

映画館兼劇場って感じの文化センターの件。これ実は、都会に出た若者が地元に戻ってくるためにも、結構重要な施設。
劇場がない。映画館もない。ギャラリーもない。公のものは全部埋まってて、現場は優秀かもしれないけど、窓口の奴はちょっとググって裏をとる気も無いのが通常のクオリティだから、何処のコロニーにも属してないみんなには受け皿が無い。皆無。

先に大家さんを発見するよりも、金の準備できてから大家さんにおねがいする方が良さそうだ。ネタの説得力としての金ね。大家さんが持ってるのは不動産だから、向こうはそうそう動けないけど、こっちは身軽。だからせめて、金の分だけでも重くなっておきたい。

クラウドファウンディングは、実際に運営を始められたら、その時には挑戦してみたいネタがあるので、立ち上げはとにかく泥臭いお金集めだ。

【最初の行動?お題ふたつ】
1.お金って、こんな場合どこから引っ張るもの?
自慢じゃないが、パソコンがあればなんとか仕事になるというレートの低さで、ちんたらちんたらやってるので、ちゃんとしたお金の集め方がわからない!
金主を探さなきゃいけないんだが、こんなね、ほぼ手ぶらでネタしかない場合、そもそもどうやって探すものかもわからないので、俺知ってる!って人は教えて。
能書きならある。プレゼン資料作る。えーっと……。事業計画も?まあ、そこら辺は任せろ。

2.みんなでゆるふわひきよせ!
みんなでロト買ってほしい。で、一等当たった人がいたら、当選金額の中から1億+αだけ俺にちょうだい。これ、多分、何気ない遊びで大勢でやると効く気がする。運命の束。束になってかかれば、なんとかなる気がするから不思議!

【おまけ】
フォルツァ総曲輪が今からみんなでギャーギャー言って存続するならそれはそれ、しなかったら、富山市で「文化」とか口走る役所絡みの人間と会うことがあったら、赤ちゃん言葉で優しく話ししてあげる。漢字やカタカナで喋るのもやめる。
これは、覚えている限り飽きるまでやるつもりなんだけど、みんなもどう?